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宮崎駿「僕の中には、二種類の豚が住んでいます。ひとつは『紅の豚』のポルコ・ロッソに通じる豚、もうひとつは、飼ったら楽しそうだなという生きものとしての豚です。豚を連れて散歩したら楽しそうでしょう」
やっとすずめの戸締まり見てきた
個人的に注目したところは芹澤くんのアルファロメオのオープンカーで、ルージュの伝言流したり、原発や津波で人がいなくなった地域で「綺麗だな」と言って主人公がそう思ってないシーン
宮崎駿のOn Your Mark意識してそうと思った
岡田斗司夫先生らへんが解説してそう
宮崎駿「僕は結果的に、トトロっていう作品が峰になっちゃってるんですよ。あれがピークだったんです。それは自然というか日本の風土をね、愛情持って描こうとしたんですよ。どういう木が生えてるか、どういう風景があるかっていうのを、理想化して描こうってことをやって、それが上手くいったんです」
同じ1973年3月17日には、東映まんがまつりの1本として「#パンダの大冒険」が公開されています。高畑勲監督と宮崎駿さんの古巣である東映動画がパンダブームに乗って制作したのですが、当時の東映動画は多くの有力スタッフが抜けた後で、作品の評価は「#パンダコパンダ」の方が上だったようです。
『風の谷のナウシカ』の「腐海」という名称は、クリミア半島にある「シュワージュ(腐った海)」が由来です。
宮崎駿監督は、この腐海のことを本で知識を得ていて、森の絵を描いたあとに腐海と名付けました。
宮崎駿「今だったら腐海の映像作るんでも、もう少し具体的にできるって思いましたけど。ただ残念なことにそのときの美術の力量とかも含めてね、そう簡単には突破できる壁じゃなかったから。うやむやにしてるなっていう思いが自分のなかにあって、それは寝覚めが悪いですよ」
宮崎駿「水平線はまっすぐだっていうふうに思わなくていい。自分たちの生きているところにまっすぐなものはないから。特に島には、まっすぐな道路もなければ、家を見るとみんな歪んでるんですよ。だからまっすぐを定規で描かなきゃいけないみたいなことはこの世界では初めから捨ててよろしい」
1984年(昭和57年)宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』が封切りされた日。雑誌「アニメージュ」誌上に連載されていた宮崎駿の同名漫画の映画化。宮崎自身が、監督、脚本を。戦争による文明崩壊後の、終末世界を舞台に、人と自然の歩むべき道を求める少女ナウシカの姿を描いた、宮崎監督の出世作&傑作。
おはようございます😆🙏✨✨
3月11日は #風の谷のナウシカが公開 された日です✨
1984年、宮崎駿監督の映画、風の谷のナウシカが日本で公開されました。観客動員数は約91万5千人、配給収入は約7.4億円でした✨
#3月11日 #ベビーアザラシ #今日は何の日
『コクリコ坂から』は、1980年代に宮崎駿監督の別荘で姪っ子が読んだ漫画雑誌『なかよし』が置いてあるのを見つけて、それを読んだことが切欠で映画化が検討されました。当時は時代と合わず頓挫しています。映画化が可能か議論したメンバーには、押井守監督や庵野秀明監督らがいました。
宮崎駿監督は『風の谷のナウシカ』の前に、『戦国魔城』という作品も企画しています。
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宮崎駿「私は、『もののけ姫』を、人間不信を助長するような映画にはしたくなかったんです。かといって、人間はいいものだという視点も捨てました。一人の人間の中には愚かさもあれば賢さもある。それが人間なんです」