アレクサンドロス大王の大遠征に兵士たちはなぜ付き従ったのか?
理由は色々あるだろうが、その一つに大王が人心掌握に極めて長けていたことが挙げられる。

アレクサンドロス大王の人心掌握術の基盤となったのは、古今東西の偉人に共通する(続く

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1014年4月23日、アイルランド皇帝(Imperator)ブライアン・ボルーの軍は、
ノルド人のタブリン王シトリック
ブライアンに権力の座を追われたアイルランド人のレンスター王メール・モルダ
オークニー諸島のノルド人伯爵ブロディール
の同盟軍と(続く

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839年、アイルランドのキリスト教徒たちにとって聖地とも呼べるアーマーの聖パトリック教会を、ヴァイキングの一団が襲撃した。
ヴァイキングを率いた首領トルゲルは、価値のある物全てを略奪し、聖典は金箔や宝石の飾りをはぎ取った後に燃やし(続く

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1886年、トランスヴァール共和国で世界有数の大金山が見つかるとゴールドラッシュが始まった。
中でも、隣接する英領南アフリカから大量のイギリス系が流入し多数派になると(あくまで白人の)先住民であるアフリカーナー(オランダ・ドイツ系)との(続く

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1942年、快進撃を続ける日本軍と決死の抵抗を行う米軍はニューギニア島のラエとポートモレスビーにそれぞれ前線飛行場を築き激しい航空戦を繰り広げた。
両者の距離は200km程度だが、間には3000m級の山脈と未踏のジャングルが立ち塞がる(続く

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1942年、マルタ島に向かう英輸送船団を戦艦リットリオを旗艦とするイタリア艦隊が捕捉した。
軽巡5隻、駆逐艦18隻の英艦隊は駆逐艦5隻を輸送船団の護衛に残し、自らはイタリア艦隊を迎撃するために前進した(続く

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15世紀末から16世紀初頭、従来のハンドカノンに弩の機構を取り入れた今日われわれがイメージする「銃」が生れた。
ライフリングを持たない当時の銃で狙えるのは、特に腕の良い射手でも100m以下。良くできた板金鎧を貫けるのは30m以内と言われる(続く

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マルコポーロの「東方見聞録」には、大カーンは貧者のために毎日3万人分の食事を配ったと記される。
実際、帝国の統治が安定した1260年代以降、フビライ・ハンは孤児や病人・高齢者の保護など社会福祉政策を矢継ぎ早に打ち出している(続く

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武士が好んで使った鏃の一種がこの「雁又」
命を刈り取る形をしているじゃろ?
実際、鎧で防護されていない手とか顔に命中すると、そりゃもうスプラッタなことになる。

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近代以前のヨーロッパにおいて、粉ひきに使う水車と風車は富の源泉だった。
何せ、貴族だろうが農奴だろうが、パンを食べない者はいないのだ。
水車や風車の持ち主である製粉屋は、多くの場合で近隣でも指折りの金持ちだったのだ。

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梅毒治療、そこひの手術
火傷の手当て、虫歯の抜歯
加えて髭剃り、洗髪、調髪
瀉血なんぞもおまかせあれ

16世紀ドイツの詩人ハンス・ザックスが記した床屋に関する詩である。
・・・床屋?

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1053年、チヴィターテの戦いでロベルト・ダルタヴィッラが率いる3000のノルマン騎士は神聖ローマ帝国軍を撃破し、ローマ教皇をも捕虜にした。
この時期、ノルマン人の多くがキリスト教に改宗していたため教皇は10ヶ月後には解放されたが(続く

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中世初期において恐怖の代名詞だったロングシップは、構造的には恐ろしく簡素な船であった。
簡素で軽いからこそ河川を遡り、浅瀬に容易に乗り込み、時には陸地を担いで横断して、北はロシアから南はシチリアまで全ヨーロッパを襲撃できたのだ。

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ガレー船は積載量に比して乗員が多く、経済的とは言い難いため商船としては早々に純帆船に取って代わられた。
とはいえ、地中海やバルト海など狭い海域で使う分には十分であり、それらの地域では軍船として、あるいは香辛料交易船として活躍している。

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ビザンツ帝国最強の将軍ベリサリウスは一介の農民から身を興し、25歳で北アフリカ遠征軍司令官となりヴァンダル王国を征服
イタリア遠征も成功させ地中海は再び「ローマの内海」に。
僅か10年でビザンツ帝国はかつてのローマ帝国の半分を取り戻した。

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重装騎兵に弓を持たせるという発想は珍しくはない。
しかし、重装騎兵に長さ2mもある大弓を持たせたのはイギリス人と日本人ぐらいだろう。
そして、重装騎兵が2m近い大弓でパルティアンショットをするのは日本以外にはたぶんいない。

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西ローマ帝国の崩壊によりヨーロッパは暗黒時代を迎えたと言われる。
しかし、こと冶金技術に関しては洗練されノルドやサクソンの優れた武器は中東へなど先進国へも盛んに輸出された。

高品質な鋼の武具が、ヴァイキングや騎士たちの強さを支えたのだ。

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955年、東フランク王国の重装騎兵は、数倍のマジャール騎兵を撃破した。
数に勝り、機敏な遊牧民たちは側面に迂回しフランク軍の野営地を奇襲したが、略奪に夢中になっているところを引き返してきた重装騎兵に轢き殺された。

なろうで真似したら(ry

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傭兵の多くは、職や農地にあぶれた貧民であった。
相続権のない騎士の次男三男や、激しいインフレや貨幣の悪鋳で生活が破綻した教師など知識階層も傭兵隊の募兵に群がり、騎兵や士官・書記等になった。

こういう若者が沢山いてバンバン死んだのである。

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傭兵社会は、兵士(下層民)と士官(貴族)の間で絶対的な格差があった。
しかし、農民からバイエルン軍騎兵総司令までのし上がった傭兵「ヤン・フォン・ヴェルト」など、まれに類まれなる才覚と功績で傭兵ドリームを成し遂げた成功者もいたりした。

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