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テンペストの妖精パックはそのような存在としてあります。人間界の秩序を、人間でないものとしてその外側から介入し、かき乱す未知の力なんです。ここで、ぼくはmzkが妖精として表象されたことを思い出します。[想いと現実の狭間で]、想い(夢)と現実(世界)の間で妖精は迷う。荘子の、胡「蝶」の夢。
が、桜はメタファーとなったとき、苦痛を伝達できるんです。イエスが十字架にかけられ人々の前で苦しみながらなくなったとき「受肉」したように、苦しむ“肉”の中に宿った幽霊=精神は、enに苦しみをさとらせる。肉と精神、生とタヒの裏表がなくなるようにして、このときmzkの裏表も無くなっている。
そしてこのとき、mzkは自分の罪と行く末(シークレット、秘密)を自覚し、苦しみはじめる。苦痛の感覚は人間にとって最も私秘的で、もし苦しんでいる人が「痛い」と言ったところで、本当にそうなのかどうかを明証することはできない。脳波計を持ち出しても無駄でしょう。→
ニーゴに関して、この「内臓」的なメタファーはいたるところに散らばっています。皮膚のような何かに覆われていて、かつアシンメトリーな事物を数え上げてみればいい。それは39のオッドアイ、割れた仮面、mzkのカーテン、片目を隠す水仙の花冠…
二人はお互いの顔を見ていない。雪=「静かな絶望」を見ることで繋がっている。絶望を感じとるのは音楽の中になのだから、雪がそうであるように音が降っているということでもあるんですよね。雪は音を視覚化した姿。雪のように冷たく、白く、静かな音を作る・聴く・歌うことで、ふたりは結ばれている。
「kndはmfyの“ために”音楽を作る」から「kndはmfy“と一緒に”音楽を作る」に移りはじめてると思います。二人は石柱を挟んでそっぽを向いているのではなく、同じ雪=音楽を見ている。enに放った「どうせ作り続ける」の言葉も、まるで「〜のために」に縛られない音楽活動のあり方を予言しているみたいだ。 https://t.co/IfPpLfrZF1
mzkとenはじかに視線を合わせるけれど、kndとmfyはお互いを見合わずに何か同じもの(=桜、雪)を見ることで間接的に結ばれているの、両者の関係性の違いを感じられて好き。
でも、mzkはまだ鏡の中に閉じ込められたままなんですよね…mzkはenの想いに応えたい、enに助けられてると思ってますけど、en自身がmzkに向き合う中で成長していることに、どうかmzkも気づいてほしい。knmfもそうですが、救う/救われるの外見以上に、二人は複雑な関係ですよね。
『再生』のMV、背景で散らばる額縁の中にはちぎれ雲のただよう「空」が描かれている。暗転してサビに入ると場面が移り変わり、床には湖のように一面の水で満たされている。これはmzkの特訓後にあるアレ、鏡でもある水面ですね。自己同一性(アイデンティティ)を失っているmzkは鏡に同じ自分を映せない
すごくどうでもいいことなんですが、四人のあいだで「水」の主題が、形を変えながら何度も繰り返されてるのがすごく気になる。鏡のように顔を映す水面(ナルシス)、水盤から溢れる水、自我(「私」)の海への潜水、梅雨と噴水。カナデトモスソラのMVにも、徐々に水位が上がっていくシーンがあります。