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スマホで世界と繋がった瞬間、自分自身という存在は“情報”と化す。データの世界を、データに変換された自分が冒険するMMORPG。 名前も性別も年齢も好きに選べる、人間関係だって自由自在。時間的•物理的な制約もない限りなく居心地のいい空間は、少しずつ“非情報”の自分を拒絶していくことになる。 https://t.co/pNem3df79X
最近は「TPO」という言葉をあまり聞かなくなったように思う。感覚的な指示が好まれないんだと思うけど、一方で同じように曖昧な「コンプライアンス」や一連のコロナ対策は素直に受け入れられたりする。自分で考えなきゃいけない前者と、怖いことはやらないに越したことはない後者の違いだろうか。
それが何かはわからないけれど、なんだかとても大切なものが、次々と壊されていく気がするのです。 それを古いと言うなら、新しいものはそんなに素晴らしいのでしょうか。 それが正しいと言えるほど、新しい人たちの目は確かでしょうか。 そんなことを思いながら、ぼんやりと川を眺めているのです。
「心が叫びたがってるんだ。」を久しぶりに観た。 丁寧に描かれる、言葉に対する“畏れ”。絵も心も音楽も透き通った、大好きな作品なのです。
まずは自分を、この国を。
コロナ対策撲滅キャンペーン 「従順なる兵士たちへ。」
いまだコロナ対策を推し進める人たちへ。
「本当じゃなければ幸せなんて呼べない」という真実ちゃんと、「楽しければ嘘でもいい」という幸福ちゃん。ふたりはお互いのことがずっと理解できないままなのです。
コロナ禍という、真実を映し出す鏡。
マスク社会になって約2年、「笑顔」を見る機会がなくなった。話す内容や声色、柔らかな目で笑ってる雰囲気は把握できても、「笑った顔」は見ていない。「コロナが怖い」「ノーマスクは悪だ」なんて主張する人たちは、この「笑顔が失われた世界」がずっと続くことに恐ろしさは感じないのだろうか。