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明治10年代に金沢で刊行された越中国地誌教科書の総てに大屋愷あつ監修・大村勝正(大助)彫刻の越中国小図が使用(凡A4、度標付)。のち大村は明治30年代まで富山県管内図と富山市街図の発行を独占した。南が上なのは地誌としての性格上近代地形図の約束に拘らなかったか。2枚目は私の指だけご挨拶。
富山市西町の元標に関する言及で確実なものに、『富山市史第2編』の明治42年9月30日付の皇太子富山行啓記事で、「(皇太子一行)西町元標ヨリ左折」との記述があります。また水間直ニ『明治の富山をさぐる』は、明治22年12月頃の「西町里程元標角」の諸商店について触れています。→
仏島の帰属について、石黒信由の絵図では能登国にしたり、越中国(射水郡)にしたり、はたまた中間点にしたりと色々です。何か政治的な配慮があったのでしょうか。加越能三州分略絵図(天保6)・射水郡分間絵図(慶応元)・能登四郡村々組分絵図(文政8)・八代組壱町三分分間絵図(文政10)です。