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日露戦争時の日本軍の喊声の一例
日本軍は敵陣への突撃時に「ワー」と喊声をあげるのが基本です。しかし「ワー」という喊声は突撃を重ねるうちに声が続かず次第に「ハー」となってしまったそうです。これはいけないということで工夫して「ヨイショ」の掛け声で突撃する部隊が現れました。
日露戦争時の帝国軍人は日本にいる間は周囲に相当モテました。ときには女学生が名刺を持って「交際をして下さい」と官舎を訪ねてくることもあり、その扱いに困ってしまったそうです。
(週番でもないのに週番懸章を身につけて巡察があるからと言ってごまかして逃げたりしたらしい)
明治陸軍兵営の入浴事情
兵営には下士兵卒が利用する浴場があり基本的に毎日入ることができました。下士兵卒にとって練兵での汗や汚れを落とす癒しの時間でしたが、時々入浴資格が無いはずの准士官である特務曹長などが入浴していることがあり、上官を追い出すわけにもいかず困ってしまったそうです。
日露戦争/旅順攻囲戦「決戦軍装」
突撃に臨む日本陸軍歩兵将校の軽装と偽装を重視した軍装の一例です。南京米袋の外被は茶褐色の夏衣と共に偽装の役割を果たし、遠目には土嚢のように見えます。
旅順は起伏の多い地形のため、第一線勤務の将兵の中には軽快に活動できるゴム底足袋を履く者もいました。
電灯がまだ広く普及していない明治時代では軍隊に入営して初めて電灯を見る者もおり、山奥出身の新兵がフーフーと電灯を吹いて灯りを消そうとしたお話が残ってます。例えば陸軍第七師団の兵営の電灯設置は明治33年頃なので、日露戦争前後ならばフーフーする新兵が各地にチラホラいたのかもしれません。
ずいぶん前に描いた看護手のイラストなのですが、間違えて襟章の部分を深緑色に塗っています。正しくは衛生部員に襟章は付さないため、襟の部分は軍衣と同じ色となります。申し訳ございませんでした。
今でも見て下さる方がいらっしゃって、ずっと気になっていたので、この機会に修正させて頂きます。