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ネット社会の「わたし」についての一般的な認識は、「エージェント」や「アバター」という言い方が示すように、代理や分身である。「わたし」の代わりに意見を述べたり行動したりする分身がいる。▶︎
デュシャンについて書くことは、彼とチェスをすることである。面白い論を展開すればするほど、ゲームも面白くなるのだが、そのゲームは最終的にデュシャンが勝つようにできている。そのようにデザインされているのである。
「インフラグラム 映像文明の新世紀」港 千尋
村上春樹さんの「猫を棄てる——父親について語るときに僕の語ること」を拝読した。
村上さんは退屈してきた。
それも40年しつづけると、誰が、どこで、なにを行為しているのか自分でも判らなくなる。
そして40年分の言葉を失うのだ。