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湊川の戦いを経て再び京都に返り咲いた尊氏は、宮方の武将を武家方に勧誘する書状を出しておる。菊池に帰った武重も例外ではなかったが、武重はこれをきっぱりと断った。怒り心頭のままに綴られた文章は、敵方の総大将を相手取っても微塵の怯みも見えぬ天晴なものじゃ。https://t.co/RX8BtqSS0B
蒙古襲来絵詞を書き記した竹崎季長じゃが、10代武房に名を尋ねられた折り「おなじきうち、竹崎の五郎兵衛季長」と答えていることから菊池一族に連なる家柄であることが考えらるる。本家の当主の眩い姿を目にして、感無量であったことじゃろう。わかる。(わかる)
【菊池の歴史・刀剣党】650年前、1回目の首都だった頃菊池には皇子様がおわした。そるが後醍醐天皇の皇子、懐良親王じゃ。九州における南朝方の総大将「征西将軍宮」として、わずか7歳の頃に都ば出て、たった12人のお供と一緒に12年もの歳月を経て菊池に入られたっぞ。https://t.co/fz7vmtM4lj
【菊池の歴史・刀剣党】鎌倉末期、幕府打倒ば掲げち全国の武士に後醍醐天皇が出した呼びかけに応えた12代武時は、幕府の九州統括所である鎮西探題ば襲撃しておる。ばってん味方のはずだった連中に土壇場で裏切られち、負け戦に終わってしもうた。今思い出しても、とつけむにゃーこったい!