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『カミカゼの幽霊』(神立尚紀 /小学館)6月30日発売
人間爆弾「桜花」の発案者とされる大田正一。終戦直後、自決したとされる彼は、名を変え戸籍を失い、戦後築いた家族にさえ正体を隠して生き続けた
「本当の父親」を探す息子の旅の行方とはーー
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銀塩の強みはこんな小さな6×6判コンタクトPも複写すれば四つ切り引伸しに耐える画質を有していること。これは進藤三郎少佐本人から「18年6月16日出撃する際の乗機」として提供を受けたが、発表したら一部から「飛行隊長機は三本線のはず」等と責められた。思い込みの知ったかマニアが必ず湧いてくる。
元零戦搭乗員・土方敏夫大尉のアルバムにこんな写真が。76年前の昭和19年4月、練習機の訓練を受けていた羽田から戦闘機の訓練を受ける大分基地への赴任途中、東海道線の車窓から見た富士山。カメラはセミミノルタ。2枚目は昨年4月に私が撮った写真と比較。富士山は、昔も今も変わらず美しいですね。
12カ月点検で日産プリンス。九〇式スカイライン三二型(R32 GTS-t typeM)は、初年度登録から今日でちょうど30年。前オーナーで元零戦搭乗員、成蹊学園中高校教頭を務めた土方敏夫大尉が88歳まで乗り、ドクターストップで私が譲り受けて10年になる。快調でまだまだ走れる。あと20年もてばいいな、と。
鹿屋空の壹岐春記大尉は数日後、沈んでいる敵艦上空で花束を投じ、敵味方の戦死者の霊を弔った。写真は壹岐大尉の航空記録。マレー沖海戦の時の壹岐大尉乗機の機番号はこの通り331。壹岐さんも百歳を目前に亡くなられた。
比叡といえば。平成16年5月、菊池雅之さんと2人、海自SH-60Jヘリに便乗、五島列島沖で行われた発着艦集合訓練を取材、海自護衛艦「ひえい」に着艦したことがある。艦内の神棚には先代の戦艦「比叡」が写真と共に祀られ、戦没した11月13日には必ず慰霊祭を行う、と艦長に聞いて感心したのを覚えている。
かつて零戦搭乗員会では、シルバーのネクタイピン(奥)とは別に、手前のようなバッジも頒布していた。ブルーグリーンと茜色。元搭乗員の皆さん、会合の時はスーツの襟にこれをつけていた。手元にあるのは志賀淑雄少佐と鈴木實中佐に頂いたものだけど、搭乗員でない私が身につけるわけにはいかない。