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昨日今日と、自立神経なのか橋本病なのかわからないけど脱力感と酷い立ち眩み。
今朝は運良く夫が転ぶ前に支えてくれた。
ので、夫から安静を言い渡されて寝ている間に、昔うちのアパートで暮らしていた日本画家の #石原進 さんがいらしたそうだ。
「明子さんのこと褒めてたよ」
えっ?
今冬、山形美術館で開催される「服部コレクション 山形が誇るフランスと日本の美術」で熊谷登久平の作品も展示予定だとのこと。
登久平にとって山形は戦前から通い、戦中には疎開をしていた地で「第二の故郷のようなものだ」と書き残しています。
義父、あの世で喜んでいると思う。
ミーハーな熊谷徳兵衛(登久平)は大正10年に中央大学進学のため上京。横浜開港に尽力した豪商熊谷伊助(生家が同じ千厩の日野屋)の孫が継いだマツヤカンパニーと、その弟治純が経営する片瀬写真館に行く。
で、萬鐵五郎に会いに。
片瀬写真館初代治純は近所の岸田劉生と交流あり(劉生日記)
右の人誰。
旧制中学時代の熊谷登久平。
中央大学入学後、横浜と片瀬江ノ島の親戚を訪ねた時。左が片瀬写真館当主の熊谷治純。(この2年後関東大震災、治純は岸田劉生宅前を通りがかり、屋根の上の岸田一家を撮影した。劉生日記に記述あり)
白日会に入選した頃。
晩年。
雑誌でフォトドキュメントを連載していた頃、戦前の貴重な写真をお借りしてくるのは難しく、最初は取材先で接写をしていた。
その後、町の印刷屋に写真複写機が入り取材先の近所で複写。
そして写真から写真の複写はどんどん安く簡易に。調整は編集任せ。
な便利さが今は難しいと知った今週。
広島原爆の日
義父のお弟子さんの太宰博邦さんは県警察部特高課長時代に生き残るも、米兵捕虜が被曝死したことで進駐軍の取り調べを受けていた。
夫から義父のお弟子さんの手記を見せてもらって太宰さんの名前を見て同姓同名かと。
文京区に太宰さんが関わった慰霊碑があったはずだが今はない。
あたしたち、ガンダム放映時は15歳だったんだからね。
誰だって歳をとるんだからね。
と、心で叫びながら冷たい視線に気がつかないフリをして写真を撮る。