//=time() ?>
その後も王朝は頻繁に交代し、周囲の大国の干渉もあり皇帝権は弱いままであった。
イケーダ朝断絶後は七選帝侯が皇帝(厳密にはハリマニア王)を選ぶこととなり、選挙権以外にも他の帝国諸侯とは一線を画した数々の特権を有した。6/7
建国初期より帝国の勢力は不安定であった。南からはハチスカ朝アワオードリ帝国が頻繁に本土を狙い、マノリシャ川(馬乗捨川)の戦い(1617)でアワジマニアを失陥した。さらに本土まで上陸を図るが、両次アワジグラード包囲戦で辛くも押しとどめた。5/7
1579年から1580年にかけて、ニッポーナの各政権を次々に崩壊させた東方の蛮族オドゥがヒョーゴスラビアに侵入した。セッツィア騎士団領が全滅。タンバゴビナではハターノ朝が潰えた。ハリマニアでも東ハリマニア公ベッチョ・ナガハールがミキー城包囲戦に敗れオデュ族に蹂躙された。3/7
2021年の領分図進捗成果です。
この数年停滞していた領分図ですが、5月より心機一転、手法を再構築して進めていきました。皆様のいいねがモチベーションになっています。本当にありがとうございます。
来年もぼちぼち続けていきたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
地理院地図から標高を引き延ばしてみたうっすらと見える。
東の迫川は昭和に掘った捷水路だし、迫川にしては川幅が広くいので、江戸期以前の北上川本流が流れていた跡かな。
幕末郡境地図
従来から作っていた全国の幕末時点での郡境ポリゴンを、農業センサスの農業集落界をベースにしたものに作り変えました。
細かい境界に疑問は残るものの、大枠はこれでよいかと。
@kamedatoshitaka 南部家の中でも島津からの養子だった八戸藩や、北畠顕家と上洛して石津の戦いで戦死した南部師行の子孫である遠野南部家の両家は新政府派であり秋田戦争に参加していないそうです。