千早城の戦いは途中足利高氏の謀反で楠木正成の粘り勝ち
最期は不明瞭。六条河原で斬首された者の中に「公藤次郎右衛門尉・五十二歳」なる者がいるが、これは年代不明の記録で年齢も合わない
足利に投降して生存したとも言われるが投降者も多くは斬首されてるのでどうだろうか

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「左」は的始めで一番射手を務める弓の名手で若手ホープとして書かれる
「右」は千早城の戦いの戦勝祈願の連歌会で「さきかけてかつ色みせよ山桜」の発句から「嵐や花のかたきなるらん」と返すも「花である我々が嵐に吹き飛ばされてない?」と場の空気を微妙にした逸話が残る

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高景もどの工藤氏の出身なのかがイマイチ判別がつかず以前は長野工藤氏、現在は奥州工藤氏が有力とみられます
加えて先述の「左」と「右」の表記揺れ問題もあり、複雑になっている
逃げ若においては「右衛門」の方は息子という形にして後年ごっちゃにされた見解としてる模様
 

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まず工藤一族自体の派生が異常に多く、駿河・伊豆・甲斐から始まり、そこから全国各地に分派して土着
苗字自体も土地に合わせて変質して「二階堂」や「鮫島」など原型がなくとも工藤一族ということがある
逃げ若で登場した「南条」も伊豆南条氏という工藤氏の支族とみられる

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逃げ若武将名鑑【工藤高景】
御内人。『御的日記』に記録が残る「工藤次郎左衛門高景」のことかと思われる
異様に表記揺れする存在であり、『太平記』で千早城攻めに参加した将に「工藤二郎“右”衛門尉高景」の名があるが、これも左と右を盛大に間違えたものとみられる

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『太平記』では慎重派として描かれており、尊氏討伐に出兵を促されても「アイツも悪いヤツじゃないんだよ……父上弔ってくれたし……」と渋っている。それが「?」ではなく「≠」な由来かもしれない
とは言えアンチ足利として戦い続けるが最期がいまいち不明瞭だったりする

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逃げ若武将名鑑【新田義宗】
新田義貞の三男だが、この漫画だと何故か義興が三男になっている
兄達を差し置いて昇殿していることから嫡子で新田の正統後継者と思われる
1340年には信濃国境付近に進出しており、翌年5月に小笠原貞宗と上杉憲顕に拠点を壊滅させられている
 

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逃げ上手の若君18巻感想らくがきまとめました。 19巻はもっともっと狂うこと間違いなし!!来年2月が楽しみですね〜!https://t.co/HA3OuciJEY

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頼継は特にこの立直を繰り返していたらしく、弟に大祝を譲った後にまた「大祝頼“嗣”」の名が表れたりする
彼の名前がコロコロ変わるのもこの立直乱用が関わっていると見て間違いない
言葉巧みに揚げ足を取りルールをハックする逃げ若における頼継の強かさはこれに由来するか
 

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しかしその頼継も度々諏訪大社を抜けて戦を行いながら大祝に就き続けている
そのからくりは戦に参加する時のみ大祝を降り、戦が終わり帰還すれば再任するというもの。この裏技を「立直」と呼ぶ
穢れは「三十七勤行」と「十三所参詣」と呼ばれる神事・儀式を行い浄化
 

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【Tips】職位と立直
諏訪大社のトップであり諏訪大明神の依り代でもある「大祝」の地位
神が諏訪の地を離れることは不吉を招き、また神職が殺生を行うことは「穢れ」という最大の禁忌
その為、中先代の乱に参戦する父時継から頼継は神を継ぐ。これを「職位」と呼ぶ
 

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なんかこう見せ場という見せ場が紛い物・創作とケチを付けられているんですよね……
大祝の座も何回も引退したり戻ったりしてるし
表記揺れも激しく「頼嗣」表記はともかく「諏訪直頼」という人物と同一人物とも言われていたりで、解釈次第で話がどうとでも広がる人物です
 

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史実における頼継のその後は1340年大徳王寺城の戦い
諏訪から出るにあたって大祝の座を退き「父祖の忠節忘れ難く」北条時行と共に挙兵し貞宗を相手に籠城戦を展開
この戦に敗北した後は諏訪に戻りますが、そもそもこの戦自体史料に乏しく実際にあったか疑問視する声もある
 

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この話は『諏訪大明神絵詞』のもので、頼継が神意によって守護られたとか、足利との仲は良好とかの記述も合わせて後年に継ぎ足された創作っぽい
『絵詞』の作者の諏訪(小坂)円忠は足利方の諏訪氏で、諏訪信仰の普及と足利との結びつきをアピールするため捏造した気配がある
 

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しかし敵対していた筈の小笠原貞宗によって藤沢政頼は追い出され、頼継が大祝を継ぐことに
このことを考えると、貞宗が頼継に恩を売って北朝に引き込もうとしたような雰囲気がありますが、その後の頼継は南朝派であり小笠原家とも敵対を続けている
どうにも辻褄が合いません
 

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中先代の乱後の混沌期の諏訪大社の主たる大祝だけあってかなり混み入った事情のある人物です
中先代時には7歳の子供であり、乱の首謀者の血縁者ともあって諏訪郡原山に逃亡・潜伏
大祝には藤沢政頼という遠縁の庶流が継承したとされます
 

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逃げ若武将名鑑【諏訪頼継】
諏訪頼重の孫にして時継の嫡子。諏訪大祝即ち諏訪明神の正統後継者
祖父・父の起こした中先代の乱終結後に潜伏生活を余儀なくされるも、神験が複数あったことで大祝を継ぐことに
南北朝動乱に際しては北条時行と結託して小笠原貞宗と争ったという
 

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金ヶ崎城の戦いで高師泰の下に入り、子の師貞・師国が高師直からの偏諱な辺り、南北朝の早い段階で足利首脳に取り入り勢力を拡大したのは間違いない
信州惣大将は守護に対する形式的な副将めいた立ち位置で、これを不満に思う村上家は幕府や小笠原家と対立していく

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兄は『太平記』で人を12mくらい放り投げたり護良親王の影武者になってはらわた撒き散らす凄絶な切腹を遂げた義光(のモデルの義日)
兄の系譜の義弘は「村上水軍」の祖とも言われますがそちらも高確率でパチモン
兄の死後に家を継いだ信貞が信濃村上氏を盛り立てた功労者です

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逃げ若武将名鑑【村上信貞】
北信濃に位置する更級郡村上郷領主にして信州惣大将
中先代以降の北条残党討伐の際に小笠原貞宗の下に加勢して転戦
その頃に領地の近い市河氏と共に戦ったり、足利首脳の高兄弟に近付くなどして巧みに足固めを行ったとみられる

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