最新刊コミックス『逃げ上手の若君』22巻献本頂きました、ありがとうございます。七原はジャンプ本誌カラー背景をちょこっとお手伝いしています。『💋大人の御所巻き💋』について読みたい方は本刊をどうぞ。 
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この和田義盛との間に生まれたのが数々の豪快な伝説を残す朝比奈義秀とされますが、江戸時代の曲亭馬琴の本等では義仲との間の子とされています
義仲の子を望月氏の領地で生んで血を繋げたのは逃げ若の創作ですが、それより前から義仲との子を望む創作はあったということです

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亜也子が読んでいたのは『平家物語』が延慶年間(1309~1310年頃)に写された「延慶本」なんですね
初版も大概だったのに更に盛られてる……!
ところで『平家物語』にはその後の巴御前は描かれてませんが『源平盛衰記』ではその後が描かれており和田義盛の妻となっています

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これも作品によってブレがあり
『平家物語』御田八郎30騎の中に駆け行り御田を引きずり落とし鞍の前輪に押さえつけ「首ねぢ切つて捨ててんげり」
『源平盛衰記』内田三郎と一騎打ちで以下同文
『延慶本』左右から襲ってきた2人を両脇で押さえつけそのまま挟んで首をもぎ落す

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複数の軍記物の他、後世の歌舞伎の題材としても人気のため設定にブレはあり、前述の樋口兼光の娘のほか今井兼平の妹ともされます
有名な伝説としては義仲最期の戦の際に彼から別れを告げられると「最後の奉公」として戦場を駆け、向かってきた豪傑の首をポロリしたものがある

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さて巴御前ですが、彼女は『平家物語』や『源平盛衰記』といった軍記物に登場する木曽義仲の愛妾にして便女
史書に登場しない架空の人物とされますが「義仲が女性を伴って戦場に出た」という設定が複数の物語で共通する以上、モデルになった女武者がいたという見方もできます

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ただ、国親の子の重隆は義仲の子の義高に仕え、彼が人質として出された時にも従っていたため無事でした
その後、義高が誅殺されると頼朝に仕え、鎌倉幕府の御家人となっており、これが亜也子の家系と思われます
望月家の領地は馬の名産地であり、武家に重宝されました

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望月国親は義仲の養父となった中原氏と連携して、その後も平家や他の源氏からも匿い続けて独立勢力として義仲を養育
義仲が挙兵した後も従軍し続けるが、源頼朝や後白河法皇と対立したことで敗色濃厚に
国親はそのまま義仲最期の戦である粟津の戦いで殿を務めて討ち死にする

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【Tips】木曽義仲と望月家
木曽義仲の重臣には今井兼平、樋口兼光(巴御前の父)、根井行親、楯親忠から成る義仲四天王と共に望月家が中核を成していた
幼い頃、平家に追われていた義仲を助けた斎藤実盛がその身を預けた先が佐久群の望月国親だとされ、その縁によるものだろう

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『逃げ上手の若君』原作最新刊まで読破!!おもしろすぎるし時行さまは可愛すぎるし小笠原のキャラ良すぎ

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翌月には道誉が政界に復帰した文書が残るため、早い内に誤解は解けたようだが、花押が乱れており怒りが尾を引いている
蟄居時に心配してくれたのに追い返した義詮には負い目があったのか、道誉はその後も義詮側近として尽くし、命鶴の後ろ盾の斯波高経を失脚させリベンジした

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【Tips】命鶴と道誉
武蔵野合戦の翌年、命鶴丸は義詮と道誉の仲について尊氏に讒言を行い、キレた道誉が北野参詣と偽って逐電し、自城に引き篭る事件が発生している
“あの”道誉が義詮の面会すら断ってストを決め込む辺り、相当なキレ具合であり、命鶴と道誉は犬猿の仲だった

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命鶴自身は出世を重ね、尊氏の死後は出家して「尊宣入道」と呼ばれるようになる
ただ、後ろ盾を失い立場が怪しくなり斯波氏に接近
その後、斯波氏の失脚で命鶴は越前に逃れ、赦免後は帰京して義満に仕えるなど渡り鳥的な立ち回りを見せますが政権の中枢には戻れなかった

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冷静に考えて上のオキニというだけで重用された戦経験の少ない増長した若者が、経験豊富な熟練の武士集団に勝てるワケもなく非常に妥当な結果です
これらは『太平記』の記述ですが美少年軍団と期待を持たせといてこのザマは相当なガッカリ展開だろ
あと6000人は流石に盛りすぎ

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花一揆は見目麗しい美少年を選抜した部隊であり、メンバー数なんと6000人
全員美しく着飾った鎧をまとい、梅の花を兜に指すビジュアル系軍団であったとされます
ただ、実際は思慮なき若者の烏合の衆で、児玉党に無策で突っ込んで潰走するなど見かけ倒しの雑魚同然だったという

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尊氏の近習として使者を担当しており、打出浜の戦い後には直義と和平交渉を行っています
戦においては翌年の薩埵峠の戦いで軍を率いており、尊氏から感状も与えられるなど18歳の若手にして頭角を現します
そして武蔵野合戦において率いた軍こそ「花一揆」と呼ばれたものです

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尊氏からの寵愛は凄まじく、当初の諱は「直宣」でしたが尊氏より偏諱を受けてからは「尊宣」を名乗りました
尊氏お前、その「尊」の字は元々後醍醐天皇から偏諱を受けたものじゃなかったか……?
それより一般的な呼称とされる「氏直」は『園太暦』の記述によるもの

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逃げ若武将名鑑【饗庭命鶴丸】
後の饗庭尊宣あるいは氏直。足利尊氏の寵童であり容貌当代無双の児
尊氏は「花一揆」というビジュ爆発の美少年6000人から成る親衛隊を作らせていたが、彼はその不動のセンター
ただグループとして連携が取れず、戦の中で解散を余儀なくされた

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実際、武蔵野合戦の後の畿内の反乱では父親と共に参戦しています
親子の絶縁は、頼房が1364年に義詮に降伏して、その子供が義満の馬廻りとなったことを誤解したかそのことを揶揄した曲筆と思われる
頼房は93歳の天寿を全うしたが、石塔家はその後歴史の表舞台に立てず没落した

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父義房との絶縁の流れは『太平記』に記され「父さんな直義様の聖地である鎌倉奪還して将軍襲おうと思うんだ」と相談され「将軍襲撃とか解釈違い」と返して尊氏に密告した……とのことですが整合性がおかしい
頼房はこの相談の前も後も直義派として尊氏と戦っているからです

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