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実際、武蔵野合戦の後の畿内の反乱では父親と共に参戦しています 親子の絶縁は、頼房が1364年に義詮に降伏して、その子供が義満の馬廻りとなったことを誤解したかそのことを揶揄した曲筆と思われる 頼房は93歳の天寿を全うしたが、石塔家はその後歴史の表舞台に立てず没落した #逃げ若 #逃げ上手の若君
父義房との絶縁の流れは『太平記』に記され「父さんな直義様の聖地である鎌倉奪還して将軍襲おうと思うんだ」と相談され「将軍襲撃とか解釈違い」と返して尊氏に密告した……とのことですが整合性がおかしい 頼房はこの相談の前も後も直義派として尊氏と戦っているからです #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ若武将名鑑【石塔頼房】 石塔義房の子で範家の弟 一族総出の直義推しだった筈だが、武蔵野合戦の直前に方向性の違いから古い考えであるヲタクの父と絶縁 別の角度から推し活を続けまくり、尊氏や義詮を困らせたが、いつの間にか義満推しに転向していた。享年93 #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ若武将名鑑【石塔義房】 石塔範家・頼房兄弟の父にして直義派武将長老 北畠顕家の対抗の奥州総大将に任じられるも尊氏から突如解任され直義派に傾倒 その後は生涯直義派を貫き、直義の死後も鎌倉奪還や、畿内での反乱に加担するも尊氏が京に戻ってから行方不明となる #逃げ若 #逃げ上手の若君
その後も武田信玄との五度に渡る川中島の戦いなど数々の伝説を打ち立てるも、生涯不犯で後継者を立てないまま死去 2人の養子景勝と景虎の間で後継者争い御館の乱が発生し、養父の山内上杉氏の憲政が巻き込まれ死亡 憲顕の研究の果てに生まれた怪物は主家を滅ぼすに至ります #逃げ若 #逃げ上手の若君
下剋上後に内乱状態となった越後の統治は、病弱な謙信の兄(上条上杉氏との間の子)には荷が重く、庶子故に寺で修行をしていた謙信が担ぎ出される そこで毘沙門天の化身の如き活躍の末に越後統一を果たし、関東管領の山内上杉氏から家督を譲られ主家の上杉家を名乗ることに #逃げ若 #逃げ上手の若君
家系としては長尾景忠の弟とされる景恒が越後に渡った越後長尾氏三家の一つ三条長尾氏の出身で、元の名は長尾景虎 三条長尾氏は代々守護代を務めるなど権勢を誇り、それ故に主家である上杉家とは度々対立しており、謙信の父である為景の代に下剋上を果たします #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ若武将名鑑【上杉謙信】 戦国時代最強の毘沙門天の化身にして越後の龍。GACKT 生涯戦績70戦43勝2敗25引き分けという脅威の記録を持つ 一方で生涯妻を持たず子は全て養子、信仰心が強すぎて高野山に家出するなど、戦国武将としては致命的な気まぐれさを併せ持つ #逃げ若 #逃げ上手の若君
上段 ・フローヴァ(鳴潮) ・ルナ終焉/罪深き月光ver(パニグレ) ・北条時行(逃げ上手の若君)
逃げ若で登場した三浦時明とは別の三浦時明(頼盛と大曾根氏の間の子)からの系譜なので絶妙にややこしい 彼の祖父の時継は中先代の乱に参戦して処刑されたのに対して、父の高継は後醍醐帝→尊氏に付いて生存するなど、こちらの三浦氏も生き延び上手な綱渡りをしています #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ若武将名鑑【三浦高通】 相模三浦氏当主にして相模守護。室町幕府方の三浦氏 直義派だったため観応の擾乱の際に守護職を解任される 武蔵野合戦でも時行らに加担して鎌倉を占領するも1カ月天下に終わり逃亡。尊氏の死後に基氏の下に戻って許され、守護に復帰している #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ上手の若君の北条時行くん! 漫画途中まで読んだけどおもろい!この後全部読みますリクエストありがとう〜!! (どちゃくそ元気です!!) https://t.co/B99Mb6T6d0
『吉野拾遺』には巴御前ばりの豪胆さや怪力ぶりを見せている女官伊賀局の姿が見られます 豪快なばかりでなく、鬼と化した藤原基任と和歌でやり取りするなど教養も併せ持つ 楠木正儀に嫁いでからはかなり大人しい……というより、あくまで伝承上の妻ということには留意が必要 #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ若武将名鑑【伊賀局】 新田四天王の篠塚重広の娘で楠木正儀の妻 後醍醐天皇の愛人の阿野廉子に仕えた女官でもある 女官時代に藤原基任の亡霊に会っても動じず受け応えて成仏させた、松や桜をへし折って橋代わりとして廉子を背負い吉野川を渡る等の女傑エピソードに溢れる #逃げ若 #逃げ上手の若君
戦果は散々だったものの北朝皇族は捕虜としてキープ。南北朝お互いに皇位の正統性を欠いた対峙が続く その後も直冬の反乱に乗じたり「一夜の夢」として京都を三度取り返す泥沼状態の中、2代将軍義詮の死の3カ月後に崩御 後村上帝の代に南北朝統一は為されなかった #逃げ若 #逃げ上手の若君
敗走時に足利方の一宮有種に一騎打ちを申し込まれる珍事や、矢の雨を受けて鎧に被弾、三種の神器が田んぼに沈没などの数々の危機を体験 これらは『太平記』の記述だが、貴族の日記にも「兵士と後村上帝の見分けがつかなかった」と記載されるため、相当な修羅場だったのは確か #逃げ若 #逃げ上手の若君
しかし、あくまで暗黙の了解の統一とはいえ南朝が一方的に講和を破ったことは事実なため、その求心力まで失ってしまう 南朝から離脱者が続出する中、足利の勢力も依然強いままなため、戦線を維持することも困難に 2ヶ月近くの抗戦の末、京都は取り返され後村上帝も敗走します #逃げ若 #逃げ上手の若君
直義の死と同日の行動は、当時の情報伝達速度としては偶然としか言いようがない それでもしばらくしてすぐ関東で宗良親王も挙兵しているため、ある程度は示し合わせたと思われる 京・鎌倉同時占領は足利に動揺を与え、北朝側の三帝や皇太子を連行するなど逆転勝利間近に迫る #逃げ若 #逃げ上手の若君
この尊氏の降伏を受け入れ、北朝が潰される形で南北朝統一「正平の一統」が成立 ただ、直義との交渉でこの降伏がお互いにとって一時しのぎに過ぎないと学習した後村上天皇は直義が死ぬと同日に京へと凱旋 楠木・北畠軍を京周辺へと動かして奪還作戦の準備をする #逃げ若 #逃げ上手の若君
直義の降伏を受け入れ、高師直の討伐の綸旨も与えた後村上陣営ですが、政治思想としては北朝側を崩さない直義と対立 偽りの降伏だったことも含めて直義は南朝の信頼を損ねて南北朝統一も破談に やがて直義と尊氏の対立が再燃すると今度は尊氏が南朝に降伏を申し入れてくる #逃げ若 #逃げ上手の若君