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いずれにせよ、彼は武蔵野合戦で武勇を示した後に主君の上杉憲顕と共に越後国に逃れます 憲顕が関東管領となった際に彼も政権復帰したと考えられ、景忠から越後守護代を譲り受けて越後長尾氏の祖となりました 長尾景虎こと上杉謙信は彼からの系譜です #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ若では景忠が『太平記』における「長尾弾正」の役割を担っていますが、彼の官位は「左衛門尉」なので実際は別人です この時期「弾正台」の官位なのは長尾景恒なので彼と思われますが、長尾氏の系図が錯綜しており景忠とは兄弟、従兄弟あるいは親戚なのかハッキリしない #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ若武将名鑑【長尾弾正】 『太平記』第31巻「笛吹峠軍の事」にその名を残す大力の剛の者 武蔵野合戦で祢津小次郎と共に足利尊氏陣営に潜入してあと一歩のところまで追い詰めたという その正体は長尾景忠の弟あるいは従兄弟の長尾景恒と思われる #逃げ若 #逃げ上手の若君
尊氏を討つかと思われたその時、密集体制での矢の掃射を食らい撤退 「あわれ運強き足利殿かな」と高らかに大口を叩くとしずしずと自陣に帰って行ったという 彼らを知っている者がいなければ、確実に歴史が変わっていたという大一番は祢津小次郎の武勇伝となりました #逃げ若 #逃げ上手の若君
最初は怪しまれず尊氏の居場所を教えてもらって近づくも、そこで「オイお前祢津と長尾だろッ」と2人を知っている人に見咎められる しかしなお戦意昴揚な2人は300騎もの包囲の中、次々敵をそれぞれ縦と横の真っ二つにしながら押し通り、尊氏に肉薄していきます #逃げ若 #逃げ上手の若君
『太平記』の該当画面では、武蔵野合戦での敗走後、祢津・長尾両名は敗北を認められず尊氏暗殺を画策 2人とも足利紋の鎧を着込み、長尾は髪を乱れさせ、祢津は刀で自分の額を切り変装 敵兵の首を刀に突き刺し「新田一族を討つ手柄を立てたので将軍へ目通り願いたい」と潜入 #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ若武将名鑑【大力の剛の者 祢津小次郎】 『太平記』第31巻「笛吹峠軍の事」に登場する武勇すぐれたるもの 長尾弾正と共に足利尊氏陣営に潜入し暗殺を狙うも見咎められて失敗 しかし敵陣内で暴れ回って尊氏をあわやという場面まで追い込み、そのまま無事に帰っていった #逃げ若 #逃げ上手の若君
最新刊コミックス『逃げ上手の若君』22巻献本頂きました、ありがとうございます。七原はジャンプ本誌カラー背景をちょこっとお手伝いしています。『💋大人の御所巻き💋』について読みたい方は本刊をどうぞ。 @ansatsu_k https://t.co/5eh0eBC6gA
この和田義盛との間に生まれたのが数々の豪快な伝説を残す朝比奈義秀とされますが、江戸時代の曲亭馬琴の本等では義仲との間の子とされています 義仲の子を望月氏の領地で生んで血を繋げたのは逃げ若の創作ですが、それより前から義仲との子を望む創作はあったということです #逃げ若 #逃げ上手の若君
亜也子が読んでいたのは『平家物語』が延慶年間(1309~1310年頃)に写された「延慶本」なんですね 初版も大概だったのに更に盛られてる……! ところで『平家物語』にはその後の巴御前は描かれてませんが『源平盛衰記』ではその後が描かれており和田義盛の妻となっています #逃げ若 #逃げ上手の若君
これも作品によってブレがあり 『平家物語』御田八郎30騎の中に駆け行り御田を引きずり落とし鞍の前輪に押さえつけ「首ねぢ切つて捨ててんげり」 『源平盛衰記』内田三郎と一騎打ちで以下同文 『延慶本』左右から襲ってきた2人を両脇で押さえつけそのまま挟んで首をもぎ落す #逃げ若 #逃げ上手の若君
複数の軍記物の他、後世の歌舞伎の題材としても人気のため設定にブレはあり、前述の樋口兼光の娘のほか今井兼平の妹ともされます 有名な伝説としては義仲最期の戦の際に彼から別れを告げられると「最後の奉公」として戦場を駆け、向かってきた豪傑の首をポロリしたものがある #逃げ若 #逃げ上手の若君
さて巴御前ですが、彼女は『平家物語』や『源平盛衰記』といった軍記物に登場する木曽義仲の愛妾にして便女 史書に登場しない架空の人物とされますが「義仲が女性を伴って戦場に出た」という設定が複数の物語で共通する以上、モデルになった女武者がいたという見方もできます #逃げ若 #逃げ上手の若君
ただ、国親の子の重隆は義仲の子の義高に仕え、彼が人質として出された時にも従っていたため無事でした その後、義高が誅殺されると頼朝に仕え、鎌倉幕府の御家人となっており、これが亜也子の家系と思われます 望月家の領地は馬の名産地であり、武家に重宝されました #逃げ若 #逃げ上手の若君
望月国親は義仲の養父となった中原氏と連携して、その後も平家や他の源氏からも匿い続けて独立勢力として義仲を養育 義仲が挙兵した後も従軍し続けるが、源頼朝や後白河法皇と対立したことで敗色濃厚に 国親はそのまま義仲最期の戦である粟津の戦いで殿を務めて討ち死にする #逃げ若 #逃げ上手の若君
【Tips】木曽義仲と望月家 木曽義仲の重臣には今井兼平、樋口兼光(巴御前の父)、根井行親、楯親忠から成る義仲四天王と共に望月家が中核を成していた 幼い頃、平家に追われていた義仲を助けた斎藤実盛がその身を預けた先が佐久群の望月国親だとされ、その縁によるものだろう #逃げ若 #逃げ上手の若君
『逃げ上手の若君』原作最新刊まで読破!!おもしろすぎるし時行さまは可愛すぎるし小笠原のキャラ良すぎ
翌月には道誉が政界に復帰した文書が残るため、早い内に誤解は解けたようだが、花押が乱れており怒りが尾を引いている 蟄居時に心配してくれたのに追い返した義詮には負い目があったのか、道誉はその後も義詮側近として尽くし、命鶴の後ろ盾の斯波高経を失脚させリベンジした #逃げ若 #逃げ上手の若君
【Tips】命鶴と道誉 武蔵野合戦の翌年、命鶴丸は義詮と道誉の仲について尊氏に讒言を行い、キレた道誉が北野参詣と偽って逐電し、自城に引き篭る事件が発生している “あの”道誉が義詮の面会すら断ってストを決め込む辺り、相当なキレ具合であり、命鶴と道誉は犬猿の仲だった #逃げ若 #逃げ上手の若君
命鶴自身は出世を重ね、尊氏の死後は出家して「尊宣入道」と呼ばれるようになる ただ、後ろ盾を失い立場が怪しくなり斯波氏に接近 その後、斯波氏の失脚で命鶴は越前に逃れ、赦免後は帰京して義満に仕えるなど渡り鳥的な立ち回りを見せますが政権の中枢には戻れなかった #逃げ若 #逃げ上手の若君