逃げ若武将名鑑【楠木正行】
軍神楠木正成の息子にして南北朝の花形スター
大楠公と称される父に負けず劣らずの人気を博し、皇国史観においては孝子・忠臣・博愛の将として激賞され「小楠公」と呼ばれる
その魅力は若くして散るというあまりに苛烈な生き様が発している

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1/11(土)22時より第三回学ぼうKKNBの会をいまのXスペースにて開催致します。齊藤太一さんを講師にお迎えして鎌倉南北朝の勉強会です。質問コーナーはスピーカーとして参加ができますので、みなさまどうぞお楽しみに!

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逃げ若武将名鑑【従五位下 治部大輔 信濃守護 小笠原源貞宗】
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将
信濃守護を務めて戦国時代にまで続く小笠原家の礎を築き上げた
小笠原総領家では小笠原流礼法中興の祖として称えており、現在も歴史にその名を遺す

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山崎城(京都府大山崎町)主要部の縄張図
南北朝期に赤松則祐によって築城されたと伝わる。応仁・文明の乱の際には山名是豊が布陣した。天正十年(1582)の山崎の戦い後、羽柴秀吉によって改修された。

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南北朝鬼抓人金鬼

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丹治城(奈良県吉野町)の縄張図
南北朝期に吉野の支城として造営されたと考慮される。

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逃げ若武将名鑑【諏訪頼継】
諏訪頼重の孫にして時継の嫡子。諏訪大祝即ち諏訪明神の正統後継者
祖父・父の起こした中先代の乱終結後に潜伏生活を余儀なくされるも、神験が複数あったことで大祝を継ぐことに
南北朝動乱に際しては北条時行と結託して小笠原貞宗と争ったという
 

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金ヶ崎城の戦いで高師泰の下に入り、子の師貞・師国が高師直からの偏諱な辺り、南北朝の早い段階で足利首脳に取り入り勢力を拡大したのは間違いない
信州惣大将は守護に対する形式的な副将めいた立ち位置で、これを不満に思う村上家は幕府や小笠原家と対立していく

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南北朝時代超入門書

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中国の南北朝時代が終わる寸前の国際情勢をイラスト化!

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軍事・政治・謀略・文化……あらゆるところに名が現れ、そしてその全てで違う顔を見せるという意味で最も食えない人物でした
ただ時と場合によって婆娑羅を使い分ける処世術に長け、足利家に一途に仕えた高い審美眼は紛れもなく本物で、南北朝を代表する傑物に他なりません

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逃げ若武将名鑑【佐々木道誉】
南北朝稀代の腹黒策師にして元祖婆娑羅大名
暗躍が大好きなトリックスターで彼が寝返った際には何らかの策謀を張り巡らせてる可能性が高い
尊氏相手にも裏切る顔をしながら結局孫の代まで面倒を見続けたズッ友で在り続け逆の意味で裏切った

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第二回学ぼうKKNBの会開催します!
2024年11月11日22時齊藤太一さまを講師にお迎えしてXのスペースにて鎌倉南北朝の勉強会を開催します。どなたでも参加可能です。皆様ぜひご参加下さいませ。質問コーナーあります。#学ぼうKKNBの会

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さらば丸亀‼️

にっかり青江、美しかったぁ💕
南北朝らしく太い&鋒でかい堂々たる姿ですが、肌が詰んで麗しく、刃縁も白く細く冴えて、めっちゃ顔が美形の中背マッチョって感じ!
中ほどで鍛え肌が目立つ部分は、腕に浮いた血管みたいで興奮します。
地斑映りが刀身に陰影の変化をもたらすのも、よき。

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この戦いで、東晋(南)の数十倍の兵力を持ちながら大敗を喫した前秦(北)は支持を失い崩壊。その後は天下統一どころか南北分裂が固着化し、「南北朝時代」が到来します。
隋による天下統一は589年なので、東晋のまさかの逆転勝利は、中国の再統一をつごう200年以上遅らせることになったのでした。

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信濃宮と呼ばれる本拠地大河原城に帰還後も抵抗しますが挽回できずそのまま吉野に帰還
『新葉和歌集』完成後の動向は定かではないですが、一説には信濃宮に戻りここを終の棲家にしたと言われています
南北朝動乱をよそに心穏やかな皇子は我を通して歌を詠み続けたのでしょう

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しかしその後の戦績は「君がため/世のため何か/をしからむ/捨てて甲斐ある/命なりせば(帝の為、世の為に命を惜しまず戦え!)」と勇ましい歌を詠み兵を鼓舞するも振るわず
南北朝の征夷大将軍の激突は北朝勝利に終わります
余談ですがこの歌は後に坂本龍馬が好んで引用する

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倒幕に失敗して配流先の隠岐でも和歌を詠んでましたが、幕府滅亡に際して天台座主として復権
南北朝に割れると還俗して伊勢に滞在後は井伊谷に潜伏。顕家の進軍に合わせて合流するも般若坂の敗走で吉野に入ります
顕家戦死後の再編成で東国配置になりますが遭難して遠江に漂着

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この戦前に蔓延った「皇国史観」というのがただでさえややこしい南北朝をさらにややこしくする厄介物で、それもあって親房も一時期アンタッチャブルな存在でした
現在ではその思想家的側面よりも南朝の総指揮官としての立ち回りが注目を集め、再評価されています
 

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その関東時代に記していたのが『神皇正統記』と『職原抄』
『神皇~』は神代からの歴代天皇の事績、そして南北朝動乱の記録を記した歴史書
『職原抄』は朝廷の官職・秩序をまとめたもの
ロクに史料もない関東で書いたのに詳細に記されており、親房の博覧強記ぶりが窺える

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