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直義を喪った後も関東直義派残党として宗義親王の下に結集して直頼は抵抗を続ける 尊氏の死後には上杉家が関東管領となり、その縁で直頼も復権 対抗勢力である小笠原家との抗争が激化していきます この辺りで直頼と思われる人物の活動は途切れますが…… #逃げ若 #逃げ上手の若君
その後、直義が尊氏から逃れるために京都から脱出する際に従った腹心の一人として直頼の名が挙げられている 直義は越前→上野経由で鎌倉を目指し、その鎌倉入りを防がんとする小笠原勢を諏訪は叩いて足止め 直義は無事鎌倉に到着するも、薩埵峠で尊氏に敗れてすぐに死亡 #逃げ若 #逃げ上手の若君
なお北朝所属時には既に「頼“嗣”」を名乗っており、表記揺れでなければ既に父の“継”の字は捨てられている。時継は泣いていい 観応の擾乱発生時には直義方を表明しており、上杉と共に高師冬討伐に従軍 その後、上洛して打出浜の戦いの後に起きた京都での戦に参戦している #逃げ若 #逃げ上手の若君
大徳王寺城の戦い以降の諏訪頼継の動きを見ると1347年には北朝に信濃守を要求。その代理の権官に任じられるように、この頃には足利方に帰順しています これは小笠原との抗争への対抗措置で、その後信濃守を再要求して小笠原政長とのW信濃守になるなど交渉上手の強かさを見せる #逃げ若 #逃げ上手の若君
“直”の字は直義からの偏諱と思われ、諏訪直頼が直義派であったことの証左となります 偏諱において相手の名前の上を授かるのは最上位の恩義と言われ、いかに信頼されていたかが窺える なお、ただでさえ影が薄い父時継から受け継いだ“継”の字は消失した。ナムアミダブツ!! #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ若武将名鑑【諏訪直頼】 観応年間(1350年)以降における諏訪家大祝(当主) 書籍によっては別人とすることもありややこしいが、諏訪頼継(嗣)が改名した名前とみられている そもそも当時の史料で「直頼」の名を冠するものが1枚しかないのがややこしさを加速させる #逃げ若 #逃げ上手の若君
代替わりの準備を終え1367年12月7日、38歳の若さで病死。死の間際に鼻血を大量に出したことから高血圧症と見られる 南北朝統一まであともう少しの段階まで進んだが、それは次代に託されることになる 死後は楠木正行の墓の隣に埋めてくれと遺言したそうだが意味不明。ナンデ? #逃げ若 #逃げ上手の若君
病気になった尊氏がそれでも九州征伐に向かおうとした時は諫め、父の死後に征夷大将軍となった後は南朝との和平交渉を継続 1363年以降は直義派残党や直冬が大人しくなり幕政が安定 道誉と共に増長した家臣を失脚させつつ、有能な家臣の細川頼之を管領に据え地盤を整えた #逃げ若 #逃げ上手の若君
真面目な話、やらかしの後にちゃんと反省して挽回する姿は真摯と言って良く、京都を4回奪われたというのも裏を返せば「ちゃんと4回取り戻した」ってことです むしろ3回目以降は守りづらい京都を敢えて捨てて、隣国で軍備を整えて奪還する策を練る“逃げ上手”になっている #逃げ若 #逃げ上手の若君
女性の治天の君の権力は弱く、そんな弱体化した北朝を後ろ盾とする幕府も失墜する大打撃で、側近の佐々木道誉がキレて裏切りかける騒動もあるが少しずつ南朝との和解交渉も進める 3回目の直冬による京都奪還時には何と天皇を連れて逃げるという成長を遂げた。成長 #逃げ若 #逃げ上手の若君
ただ4度に渡る京都防衛失敗、そしてその内2度も天皇や上皇を忘れて逃げたとんでもない「忘れ物」癖の大ポカがデカすぎた 一度目は曲がりなりにも北朝側だった直義が相手だったので大事なかったですが、二度目は天皇・上皇・皇太子と三種の神器が奪われる致命傷を負っています #逃げ若 #逃げ上手の若君
流されてるのは人の意見ではなく南北朝のパワーゲームであり、まだ若輩だった義詮が責められる謂れはない 補佐役が全員離れた観応の擾乱後も、歴戦の執事の内ゲバに振り回された側面はあれど、北朝の権威回復に努めて室町幕府を軌道に乗せた2代目としての役割を全うしています #逃げ若 #逃げ上手の若君
『太平記』の義詮評は「人の意見に流されやすい」でイマイチ頼りない2代目という印象 ただ、これは義詮の立場を考えると仕方ない部分があり、鎌倉府時代は斯波や上杉と言った執事、直義失脚後に京都に上ってからは師直、師直死亡後は直義……と補佐役が次々変わっている #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ若武将名鑑【足利義詮】 足利尊氏の嫡子にして室町幕府2代目将軍 先代が無茶苦茶やった負債を全て丸投げされた不遇の将軍 基本幕府の2代目は舐められがちではあるが、彼の場合は北朝の上皇と天皇を2度も京都に置き忘れてしまった「忘れん坊将軍」であることが響いている #逃げ若 #逃げ上手の若君
京都はすぐに義詮に奪還されましたが、尊氏が勝手に降伏したことで北朝の上皇・天皇・皇太子は捕虜になり、尊氏が北朝で擁立した崇光天皇は廃位 また、三種の神器も奪われたことで北朝の正統性は完全に失われることになります 北朝最大の敵って足利兄弟なんじゃねーかな…… #逃げ若 #逃げ上手の若君
この講和は「正平一統」と言いますが、尊氏としては直義を討つまでの一時的な講和として適当に和議を済ませたのでしょう 尤も南朝側も“あの”尊氏が素直に講和するワケないと思ってたので、尊氏が関東で捕らえた直義が急死すると南朝は和議を破って京都を奪還しています #逃げ若 #逃げ上手の若君
ただ、なるべく北朝有利の状態で南朝と和睦できるよう交渉していた直義に対して、尊氏は明らか北朝不利の条件で和睦……と完全に見捨てている わずらわしい交渉に囚われるより先に直義を討つことを優先したタイパ重視の結果でしょう なお北朝を立てたのは尊氏です #逃げ若 #逃げ上手の若君
打出浜の後の無茶苦茶な論功行賞を終えた尊氏ですが、直義と彼に連なる反尊氏派の勢いは止まらない 直義は関東に逃れ、九州の直冬と挟み撃ちにされかねない状況で尊氏は敵を直義一本に絞ることを決意 その為にかつての直義のように南朝に降伏して直義を朝敵認定させます #逃げ若 #逃げ上手の若君
なお大河『太平記』では尊氏に魅了されており、裏切ることを危惧した桃井によって暗殺されたという解釈を取っています 同時代の史料では「利泰」と「利康」で表記揺れがありますが、同一人物と思われ、奉行や評定衆として活躍しています #逃げ若 #逃げ上手の若君
禍福は糾える縄の如しとは言いますが、とんでもない勢いで浮き沈みをしている人生で、特に幕政に復帰した1カ月後に暗殺されている辺り薄幸な人物です。 彼を暗殺した犯人も動機も一切不明ですが、その2ヶ月後には桃井直常も襲撃されており、師直派残党の犯行と思われます #逃げ若 #逃げ上手の若君