逃げ若/🎃happy Halloween!!👻(続)吹雪に沢山食べさせたい
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雑訴決断所も同じような問題を抱えていて、このように有耶無耶になった土地問題を一つひとつ精査しようとした結果、問題が山積みとなりパンク状態に
土地に居座る武士に出ていけと綸旨を出しても無視されたり居直られたりする始末なので、結果綸旨自体の価値も貶めることに
 

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そもそも武士への恩賞自体が問題になっている部分もある
後醍醐帝は最初自らの手で全ての北条の土地を再分配しようとしましたが、恩賞欲しさに手柄を盛ったり嘘を吐いたりする武士が多数
例えば日置氏は早くから味方していたとして、書類の日付を書き直してる跡が見つかってる

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天下を朝廷に戻した後醍醐天皇が始めた建武の新政ですが、倒幕時に護良親王が令旨をバラ撒きすぎた反動が早速来る
後醍醐としては天皇の出す命令の綸旨を絶対としたいのに、護良が勝手に恩賞の約束をした令旨が邪魔になったのです
これが護良との軋轢の一つと言われている

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その反乱を鎮圧する為に派遣された足利高氏にも倒幕の綸旨が送られ、それに従った高氏によって六波羅探題が壊滅。鎌倉幕府滅亡へと雪崩れ込みます
一連の絵図を完璧に描いてたなら恐るべき策士ですが、正中の変のgdgdさを見るに割とたまたま条件が重なっただけな気もする

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それ以上に恐ろしいのはド級のリトライ、ドリトライの精神性でしょう
それこそ承久の乱を起こした後鳥羽院のように反乱を起こす天(上)皇はいましたが、配流先から戻ってくる程の人物は空前絶後です
正成の奮闘、護良親王の令旨ばら撒き、赤松円心の挙兵とタイミングも絶妙

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何と後醍醐天皇は配流先の隠岐から脱出
この時出迎えたのが三木一草の名和長高(年)で、海運業を営んでいた彼に因んで「帆掛船」の家紋と「名前が長くて高いのは危ないからこれで長生きしろ」と「年」の字を贈ったという
人心掌握術の高さが感じ取れる逸話です
 

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「諏訪大明神絵詞」によると藤沢が継いだことで諏訪大明神の怒りを買い様々な災いが起きた…とされますが、まあこれは諏訪大祝家が正統性を示す為のプロパガンダでしょう
実際は建武政権が立てた大祝を足利(北朝)政権が否定し、御しやすい年少の頼継を頭に据えるのが目的かと

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逃げ若武将名鑑【藤沢政頼】
中先代の乱の責任を取り自害した諏訪頼重・時継親子の次代の諏訪大社大祝(主)
藤沢氏は平安末期に諏訪家から分かれて伊那郡藤沢に居着いた一族で宗家からは遠い
小笠原貞宗によってその座を追われ、諏訪頼継が代わりに大祝を継いだという

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軍事・政治・謀略・文化……あらゆるところに名が現れ、そしてその全てで違う顔を見せるという意味で最も食えない人物でした
ただ時と場合によって婆娑羅を使い分ける処世術に長け、足利家に一途に仕えた高い審美眼は紛れもなく本物で、南北朝を代表する傑物に他なりません

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連歌では道誉の真似を皆がしたとか、茶では名物「九十九髪茄子」を見出して義満に献上したとか事実伝来含めて様々な文化にその名を残す
庶民文化の「猿楽」にも目を付け、観阿弥・世阿弥と交流を持ち、映画にもなった犬王を日本一と褒め称え「能」に大成する一助になったとか

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代名詞の「婆娑羅」にさえフェイクが混ざってて油断ならない道誉ですが、貴族文化への熱量は本物
勿論文化を通して公家とのコネを作る政治的役割は否定できませんが、道誉の場合は影響力が大きすぎる
一説には華道において最古の伝書とされる『立花口伝大事』も道誉の口伝とか

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流石に流刑となりますが、その際に比叡山の神獣である猿の皮ファッションで練り歩いたというから正に婆娑羅
流刑の様子は「物見遊山」のようと記され、翌年には幕政に戻ってることも考えると寺社勢力に脅しをかける為の幕府と示し合わせた謀略とも言われているのも道誉らしい

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逃げ若本誌感想 そこそこ存在しない記憶

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文化面でも欠かすことが出来ない人物であり、この時代の武士のトレンドである「婆娑羅」の代表格とされます
婆娑羅とは権力に媚びずイキった服装や行動を貫くロックな生き様
道誉も息子がトラブルを起こして揉めた比叡山系列の妙法院を逆ギレ気味に焼き討ちする様を見せる

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ただこの局面でも軽率に足利を討つことを選ばなかった辺りが道誉の可愛げというか誠実なところです
義詮の代になってからも仁木義長、細川清氏、斯波高経といった足利首脳陣を追い落とす暗躍を続けるも、全て義詮の利になっている
ミまへの譲状からして家族もちゃんと愛してる

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ただ箱根竹ノ下の戦いでの偽装降伏の前の手越河原で実の弟が戦死しており、本当に偽装だとするとあまりに犠牲を払いすぎである
擾乱でも実際に後村上天皇から「足利家を滅ぼせ」という綸旨が下されており、本当に尊氏を裏切るルートもあった
常に全力で博打を打つのが道誉流

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道誉はこの手の偽装をかなり常習的に行なっていた節がある
尊氏と直義が対立した観応の擾乱においても尊氏派だった筈の道誉に謀反の疑いありとして尊氏が挙兵してますが、これは京都にいる直義を包囲する為に尊氏が軍を動かす名目を作る偽装と言われている

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倒幕後は雑訴決断所に勤務するなど建武の新政に加わりますが、中先代の乱に合わせての挙兵に同行し活躍
そのまま尊氏の新政への反逆に従うも、手越河原の戦いで敗北して新田義貞に降伏
しかし次いでの箱根竹ノ下の戦いでは足利軍に加わっているため偽装降伏とも言われている

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元は北条高時に仕えた御家人であり、その頃の名前は奇しくも生涯の盟友と同じく「高氏」
高時から一字賜ったものと見られ、高時が出家するとそれに倣って出家して「道誉」の法名を名乗ります
倒幕時の動向は不明。『太平記』では尊氏を焚き付けたとも書かれますが信憑性は皆無

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