この「後醍醐院百ヶ日御願文」(通称“怪文書”)抜粋した部分もヤバイですがそれ以外もヤバイ
「こんな賢君が何故無念の死を!?」←お前のせい
「陛下の弟子」←自称
「私は戦功しかない武辺者だけどこれも陛下のおかげだし頑張ります!」←自己完結

お  ま  え  が

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【Tips】おまえが
尊氏は後醍醐天皇崩御100日目にその死を惜しむ願文を遺している。以下抜粋
「我ら民草は黄金の君徳を忘れない」
「君臨すること太陽の如く、我らが仰ぎ見ること雲の如くの王者」
「陛下の穏やかで優しいお言葉が今もなお我の耳の奥から離れず胸が苦しい」
 

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政敵の後醍醐は兎も角、北朝初代天皇として担ぎ上げた足利からの扱いも蔑ろなのはなんなんですかね……
虜囚になってから出家して洞院公賢に「本心か!?」と訝しまれたが、どう考えても本心だろ……
解放後は面会を断ち「ごく普通の葬式をしてくれ」と遺言したのがもの悲しい

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光厳院の地獄一覧
・山賊に襲撃されひじに矢を受ける
・後醍醐院による皇位簒奪
・土岐頼遠に「院じゃなく犬w」と矢を放たれ牛車横転
・頼りの直義が南朝に寝返り見捨てられる
・戦乱の中義詮に忘れられる
・北朝一時消失
・南朝の虜囚になる
・明治に歴代天皇から除外される
 

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逃げ若武将名鑑【光厳天皇/上皇】
元96代天皇で北朝初代天皇。地獄を二度も見た天皇(書名)
義父花園院の仁政を継ぎ、度々徳政を行った賢君だが、後醍醐院や足利政権のせいで度々地獄を見ることになる
最終的に歴代天皇からも除外された。こんな時代に誰がした……!

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『#室町無頼』この画面いっぱいのエネルギッシュさ、この時代の正規の武士の数が少なくアウトロー共が往来を跋扈しているからこそ出せる味でして本当に見事に噛み合ったな…と。逃げ若での「投石は画的に映えない」理論もこの乱戦の中では見事に否定され、滅茶苦茶投石が映える映画になってるのが最高

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フォルダ見てたら前書いてたサクナヒメとクロスオーバーの逃げ若が出てきた

あの頃はずっと時代劇が続いてゴールデンタイムだった

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1/12 SCC関西30
インテックス大阪

6号館Dゾーン 【ウ21b】
サークル名:アイスクレヨ

ダン飯(ライチル)逃げ若(若&こじ受)
参加します~!よろしくお願いいたします🌟

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アンデラ183話が載ったジャンプ(2023年50号)の逃げ若で奇跡が起きてたため
「まぁ……面白いからオッケーだよ!!」の空気が強かったです

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先週号の逃げ若はむねよししんのー様がゑっ…だなというらくがき。しんのー様が尊い…そしてエロい(不敬)
こじくんとお跡目の触れ合いも良かった。若の最後の乾坤一擲の大勝負も迫力あってよかったな。

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貞宗は大徳王寺城の戦い後も高師冬の要請を受けて北畠親房が籠る大宝城攻略に参戦したり精力的に活躍
1345年には嫡子の政長に守護職や所領を譲りながらも政務に携わる半引退生活に
足利家の内乱である観応の擾乱が巻き起こるより前の1347年5月26日に京都で死去。享年56歳

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「守矢文書」は諏訪大社の筆頭神官を務めた守矢貞実が大徳王寺城の戦いの数十年後に記したもの
つまり伝聞による記載であり、他の史料にこの戦の記録がないため非実在合戦だと言われてしまう
ただこの時代の史料が少ないのは常だし、火がないところに煙は立たぬじゃないかな

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1340年の「大徳王寺城の戦い」は、宗良親王を立てて籠城した時行・諏訪連合軍との腐れ縁の総決算たる戦い
小競り合いでは数十回もの敗北をしつつ、4カ月粘ったことで落城させて勝利したという
ただこの合戦「守矢文書」にしか記述がなく実際にあったか疑問視されてもいます

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そもそも優秀でなければ反乱多発地帯の信濃を治めることは不可能なワケで……
「時行と顕家以外に敗北なし」の敗北の内訳は「中先代の乱」と「青野原の戦い」のことでしょう
奇しくもどちらも時行が絡んでいます(青野原では実際には時行ではなく伊達ら奥州勢に敗北している)

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そんな状況で一貫して足利尊氏に従い信濃守護となった貞宗は紛れもなく一族中興の祖だったわけです
小笠原流礼法創始者としての功績は先の名鑑で書いたように、子孫が箔付けの為に盛っている部分がありますが盛るに足る偉大な祖という証左です
https://t.co/UxxVObuuNT

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その後、信濃小笠原家惣領の座は庶流の伴野氏に移りますが、伴野氏も霜月騒動に巻き込まれて没落
解説上手でも触れられていますが、以前まで貞宗は信濃国松尾と考えられていたものの、霜月騒動で信濃領を大幅に没収されているので信濃に地盤はなかったと見るべきです

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「源貞宗」とありますが、これは小笠原家が清和源氏の出身である為の氏読み
清和源氏の一派甲斐武田氏の分流であり、甲斐国巨摩郡小笠原に所領を持っていたことからこの苗字に
その後、信濃に土着した一族が貞宗の先祖ですが、2代目が比企能員の変に連座していきなり失脚

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逃げ若武将名鑑【従五位下 治部大輔 信濃守護 小笠原源貞宗】
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将
信濃守護を務めて戦国時代にまで続く小笠原家の礎を築き上げた
小笠原総領家では小笠原流礼法中興の祖として称えており、現在も歴史にその名を遺す

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