戦国時代の公家達は屋敷に引き籠もらず、毎日の様に何処かしらへ出かけている

「言継卿記」などを見る限り、毎日ひっきりなしに公卿仲間や織田家の関係者、果ては織田信長にまで会いに行っている

本の貸し借りをしたり贈り物の交換、酒を飲むなど厚誼を重ねている

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主家と豊臣家の衝突回避を試みた谷忠澄と北条氏規、豊臣家に早期降伏して中央への転封を望んだ島津家久(叔父)たちには共通の履歴がある

 全員上洛経験がある
地方と中央の違い、天下人の威勢と殷賑振りを伝聞ではなく実際に見ており、谷忠澄はその事に言及している

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江戸幕府が禁じた宗教はキリスト教だけではない

法華宗不受不施派も禁令とされた
法華宗を信じない者は将軍家であっても靡かないという反体制的要素があったため

豊臣秀吉の法要要請を拒否した事から弾圧が始まり、寛永七年には江戸幕府より邪宗と定められた

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北条家では友達の選び方まで定めている

分国法の一つに数えられる“早雲寺殿廿一箇条”だが、法律というよりより良い武将になるための箇条書き風で、そのまま小学生の教訓に使える様な内容である

なお、悪い友人は囲碁将棋・笛尺八の友である

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塩は軍需物資

兵糧の一部であり、同じく兵糧である味噌の醸造にも必須だったため

海がある国なら塩釜で海水を炊きこんで形成し足軽達に渡すことが出来た
『塩が切れるのは水が切れるより辛い』と雑兵達は語る

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日本の馬に蹄鉄を打つようになるのは幕末の開国以降

なので戦国時代の騎馬に蹄鉄はない
蹄鉄が無いと馬が駆ける際に体重をかけると僅かだが馬蹄が撓むためしっかりとした駆歩が出来なくなる

鎧武者を乗せて競馬場のような長距離は走れない論拠の一つに挙げられる

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ヤクザの指詰めは戦国の刑罰に由来する

戦場での同士討ちは大概が“討たれ損”だが、悪質な場合は容疑者の左手ないし右手の小指を詰め、罪を重ねると反対側、薬指…と順に詰めた

なので手を見れば粗忽者と判ったようだが、手指は鎧武者の急所なので無い武士も多かった

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戦上手は逃げ上手

押すときは圧し引くときは退く、進退の妙は兵法は無論、最前線で戦う者も必須の嗅覚で、これが備わらないと逃げ遅れて命を落とすという

織田信長が逃げっぷりの良い敵将をそれで判断した逸話、馬場信春が手柄を立てる秘訣に進退を挙げている

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松永久秀の妻は元関白夫人

久秀の妻、に該当する女性は何人か居るがその内の一人・保子は権大納言広橋国光の妹で従一位関白左大臣・一条兼冬の未亡人

保子は1564年に亡くなるが、久秀は大林宗套ら高僧を招いて盛大に弔い、堺の南宗寺に勝善院を建てて追善した

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本能寺後の筒井順慶の優柔不断振りは名高いが、細川幽斎も似たような事をしている

明智光秀の誘いは蹴ったが弔い合戦を起こすでもなく、山崎の合戦で秀吉に付いた訳でもない

合戦終結後に本能寺の焼跡で信長追悼歌会を主催するまで雲隠れしていた

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細川忠興の織田信長崇拝は半端ない

本能寺の変後の反応が有名だが、以降も命日は無論、月命日も弔いを忘れなかった

細川家が丹後国を得た際、信長から『藤孝(父親)じゃなくて、お前にやる』と言って貰えたのは相当嬉しかったらしく、後年まで話の種にしていた

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戦国時代の朝廷は“その時点で京都を支配する最強勢力”の肩を持つ

要するに内裏や公家の庇護者になるなら誰でも良く、それ以外の勢力に秋波を送る事もない

 なので京都から逃げた将軍や支配者に関心が薄く、該当するなら明智光秀でも肩を持つ

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徳川家康は江戸の鬼門に自身を祀る堂を建てろ遺言したが、実は“小堂”を勧進しろとしている

堂の大小如何なく子孫を護る気だったのだろうが、幕府が威信を掛けて遺産を費やし日光東照宮を創り、世界遺産になったと知った大御所様がどんな顔したか見てみたくはある

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戦国武将の事象が不確かになるのは子孫はもちろんだが菩提寺の荒廃も関係する

菩提寺は武将の供養のほか生没や実績史料を管理しているので廃寺になるとそれらが散失する

明治の廃仏毀釈でかなりの寺宝や史料が失われたとされる

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「みんな真田“幸村”だと思ってるけど、あれ間違いだからな?」は江戸時代からある

水戸の御老公こと徳川光圀(1628-1701)が存命中に指摘しているので、かなり使い古されている

なお御老公は本人筆の“信繁”を読み間違えたのか“信仍”だと思っていた模様

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本願寺顕如はは晩年まで権力と縁が切れなかった

石山退去後も法主の座と権威が生み出すヒト・モノ・カネのせいで豊臣秀吉から利用され制約を受けている

ただ妻と揃って茶会や歌会に出たり有馬温泉に湯治したりと、石山戦争の騒乱時になかった悠々自適もあったらしい

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戦国武将の能力・実績は家臣団評価込み

領地や俸禄が必要経費込みなので任務に必要な人件費も武将持ち

なので丹羽長秀家臣・長束正家の内務処理や加藤清正家臣の飯田覚兵衛・森本儀太夫の築城術も併せて加味されている

当人に技能がなくても家臣にあれば問題ない

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下剋上でも“氏”と“家格”は超えられない

実力でのし上がった者も結局は足利氏や源平・藤原氏に自らを近寄せるが、そうしないと世間の支持を得られなかったから

三好長慶が御相伴衆など三好の家柄を超える職位を得たときも、大友宗麟など諸大名から苦情が出た

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徳川家康の遺品には村正が何点かある

家康死後の形見分けで越前松平家などが相続している
徳川家に祟るなど伝承があるが村正は伊勢桑名の刀工なので地域的に三河でも流通しており、徳川家に関係しやすい状況だった

なお、本多忠勝の蜻蛉切も村正作である

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織田信忠の趣味は能楽

観る側ではなく演じる側
あまりにも没頭するため、怒った父・織田信長から能道具一式を取り上げられたことがある

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