徳川家康の軍旗は白地に三つ葉葵…
から無地の白旗に変わった

小牧・長久手の戦い頃から無地の白旗に変更、内大臣拝命を期に乳(ち。旗と旗竿を結ぶ紐)を紫に変えている

無地の白旗は源氏の棟梁・源頼朝に由来し、足利没落後の徳川家の矜持を示している

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明智光秀の謀叛の理由を本人から教えて貰った人がいる・其の二

細川幽斎・忠興父子
二人が信長に哀悼の意を示して髻を切ると慌てて書状を出しているが、そこには『十五郎(嫡男)や忠興の事を思ってやった、畿内が平定出来れば後は若い世代に譲る』と綴られている

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明智光秀の謀叛の理由を本人から教えて貰った人がいる

公卿で神道家の吉田兼見
朝廷の勅使として安土城を訪れた際に光秀から謀叛に関する“存分”を語られた

だが兼見は肝心の内容を記録していないので結局謎のままである

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上杉謙信女説と徳川家康影武者説を唱えた人は同じ人

作家の八切止夫が唱えた説
歴史家が一次史料を入念に調べて唱えた訳ではなく破綻があり巷説に留まっているが、論拠は割とあるので一考の余地が無くはない

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“十文字腹を切る”とは切腹で文字通り腹を十文字に切る正式な作法

内臓は傷つけず腹筋と腹膜を切るが腹部は直下に骨が無いので切開には相当な技量と忍耐が必要である

達成者には柴田勝家が有名だが三好義継もこれを行っている

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武田信玄の軍配は超重量

後年になって兵法家の小幡景憲が再現し、総金属製で金銀で北斗七星をあしらった見事なものだった

但し腕力自慢の徳川家康が『こんな重たいもので指揮が採れるか』と放り投げたらしいので真贋は怪しい模様

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公家の一条とか二条、今出川などの氏は京都の通りの名前が由来

家祖や高名な祖先、現当主がその通りに屋敷を持つことからそのまま一族の通り名になったことが由来に多い

余談だが姉小路頼綱の姉小路、六角承禎の六角も京都の通りの名前が由来である

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三好政康は最近寿命が半世紀ほど縮んだ

大坂夏の陣の三好清海と同一視されてきたが、一次史料『二条宴乗記』に1569年5月3日に悲惨な最期を迎えた、とありこのとき死んだのではないかという指摘がある

真実なら三好三人衆で最初の脱落者になる

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同じ欧州人でもラテン系とチュートン系は区別出来ていた

ポルトガル・スペイン人は南蛮人、イギリス・オランダ人は紅毛人と呼んで区別していた

紅毛とは赤毛のことで、髭や髪が赤みがかっている人種をそう呼んだが後に拡大解釈が進み曖昧に西欧人を指す様になった

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討ち取った敵の首は油断すると味方に盗られる

仲の良い同僚が居て生き残れば後で証言もして貰えるが、そうでないなら盗まれるか最悪後ろから刺し殺されて奪われる

福島正則は初陣で首を二つ獲って二つ盗まれ、悔しさのあまり男泣きしている

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宮本武蔵が島原の乱で投石を受け負傷した話は有名だが、その武蔵が世話になった細川忠利の父・細川忠興も投石で負傷している

初陣となった松永久秀討伐戦、大和片岡城攻めで投石が頭に直撃
傷跡は後々まで頭部に残っていたらしい

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加藤清正家中では酒の席で刀を抜くと死罪になる

如何なる理由があっても問答無用で切腹になる
当時は酒の席で些細な事で死人が出る喧嘩に発展することも少なくなかったためだと思われる

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上杉景勝が無口なのは有名だが上杉陣中も無駄口は御法度

「粛然と言わず、ただ旌旗狼煙金鼓(法螺)貝に従うべし』という謙信時代の軍律を遵守したため

上杉軍は行軍時に足音しか聞こえないと評判だったらしく、徳川家康も評価している

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福島正則が母里太兵衛に名槍「日本号」を呑み取られたのは黒田節にもある話だが、後藤又兵衛にも喧嘩を売っている

「黒田家の右筆は字が下手だ」と正則が又兵衛に書状を突きつけたが
『黒田家の右筆は送り先の家柄で字の優劣を変えるのです』
と見事に切り返された

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細川忠興はある家宝を取得して逆に大慌てしたことがある

蒲生氏郷家に伝わる「佐々木高綱の鐙」で、忠興が欲すると氏郷があっさり譲って寄越した

喜びを通り越し後悔した忠興が返却しようとしたが氏郷が受け取ってくれず、仕方なく氏郷死後に蒲生家へ返したらしい

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天皇の宸筆(直筆)は買うことが出来た

後奈良天皇(在位1526〜1557年)の朝廷は赤貧に喘ぎ、天皇は直筆のサインを書いては禁裏の軒先で吊っておいた

欲しい者は幾許かの銭と引き換えに貰えたので実質は宸筆を売っていたことになる

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浅井長政・久政・朝倉義景の泊濃髑髏は内輪だけの見世物だった

天正二年(1574年)正月に披露された有名な金色髑髏だが、公家衆や他国衆が帰ったあと、馬廻衆(親衛隊)だけの二次会で『珍しい肴』として出て来た

その後は歌え飲めで普通に盛り上がったらしい

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石山本願寺降伏後も一向一揆は活動している

総本山である本願寺が白旗を降ったあとも北陸や甲信では一向一揆が確固たる活動を続け、天正壬午の乱でも諸大名の狭間で蜂起して武力衝突した

顕如は残存する一揆衆の説得や鎮撫のために行脚している

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越前一向一揆は一枚岩ではない

特に石山から派遣された下間頼照と越前門徒の軋轢は酷く、怒った門徒が加賀一向一揆から新たな総領に迎えようと内ゲバを起こしたことがある

『あいつらは俺達を下僕扱いしている』と門徒の怒りが今に書き残されている

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佐久間信盛が最期を迎えたのは温泉

織田家を追放されたあと高野山に登ったが、そこすらも追い出されて最期は大和国は十津川、湯泉地温泉で生涯を終えた

翌年嫡子の佐久間正勝が織田家復帰を果たすが、信盛に最後まで付いていた従者は褒賞され出世している

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