外出自粛中のご家庭の団らん用にぜひどうぞ。「あがり」と同時に「登戸研究所」への興味が止まらなくなるはずです!開館再開後、お待ちしております。(A3サイズで印刷できます。)#すごろく

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登戸駅。
こんなジャイアンより「さからうものは死けい!」のほうが魅力的なのにー( ´∀`)(むりです)

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明治大学中野キャンパスがある場所には陸軍中野学校がありました。中野学校は諜報活動の人員を養成する極秘機関。同じく極秘の登戸研究所では彼らが使う器材を開発、一部の所員は教官として中野学校に出入り。登戸研究所製偽札を運搬したのも中野学校出身者でした。

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登戸の件含め、生存バイアス的な観点で、加害者が物理的に「何を持っていたか」ではなく「何を持っていなかったか」の方が分析に資すると思う。

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登戸の事件は、小学生設計局としても痛ましい事件で、被害にあわれた方のお見舞い申し上げます。

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品川、青葉台、登戸の3人。
意外と少ないですね。

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藤子不二雄ミュージアムに登戸から歩いて向かったのだけど
途中に1本だけ満開の桜の木が

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 第201回
女学校を出た後、兄の薦めで同じ登戸研究所に勤務した。兄嫁も勤務していた。庶務科の広くて人が大勢いる部屋で仕事をした。毎日、小田急線沿いの幅1m位の細い道を通った。研究所で風船爆弾を作っていることを兄から聞いたが、話してはいけないと言われた。(16才、女)

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「あんた、なにその服ウケる」
「ば、馬鹿にすんなよ!そういう虹が丘だって普段と雰囲気違うじゃねーか」
「は?生田のくせになに言ってんの」
「登戸だっつーの!」

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 第190回
住んでいる地区の人たちは軒並み登戸研究所に働きに来ていた。私の家は姉二人と私の三人。隣家は同級生と姉の二人。私の分家では同級生が一人。徴兵逃れで守衛になった人も多かった。ただ仕事のことについては一切口に出したことはありません。
(15才、見習い工員)

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 第176回
風船爆弾には発信機が付いている。今どこを飛んでいるか、発信音を傍受していた。でも4時間位したら発信音が聞こえない。おかしい。気球が落ちたのではないかといろいろ考えたが、蓄電池が4時間しか持たないためだった。(15才、男)
【注】試射時のこと

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 第150回
16歳の時に、向かいに住んでいた将校の紹介で登戸研究所に入った。憲兵に調べられることはなかった。入所してまずは敬礼の練習、外部に話してはいけません、という教育を受けた。(16才、女)

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 第140回
残業する人もいたし、泊まりこむ人もいたけど、私は大体帰った。ただ、ライター型の拳銃の時は徹夜で実験させられた。(20代、工員)

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 第135回
風船爆弾にぶら下げる爆弾の中の火薬を計る作業をしていました。天秤で両方がピッタリ合わないと不合格になるので、目を凝らして両方が真っ直ぐになるまで一所懸命にらんでいたのを記憶しています。(16才、女学生)

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 第91回
1945年の秋にGHQが来たのは覚えている。若い女性と美しい着物がさらわれると噂があったため、とっても怖かった。(8才、登戸研究所疎開先住民女子)
【注】GHQは登戸研究所の疎開先にもやってきました。

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 第90回
戦後、登戸研究所が疎開先の学校に残していったものをいたずらで取り出して遊んでいたら爆発して、子供の兄弟二人が手を飛ばしてしまうという事故があった。(疎開先の住民男性)
【注】疎開先では戦後、毒入りチョコ誤食事故も起きています(第21回参照)。

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 第84回
第四科(製造工場)の上司の伍長は厳しい人だった。独身で田舎っぽい雰囲気の人だったが、若い人が第四科に入るようになってからはお洒落を始めた。が、元が田舎っぽいので板についていなかった。(10代、男)

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