画質 高画質

○橋姫:はしひめ

嵯峨天皇の御代、ある公卿の娘が深い妬みから貴船明神に鬼に変えて欲しいと願掛けをした。貴船明神のお告げのままに鬼の装いをし二十一日間宇治川に浸かった娘は鬼神・橋姫へと変じ、妬んだ男女を取り殺し、ついには橋を通る者を無差別に殺すようになったという。

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おはようございます!本日12月15日は皇暦が公布された日です。
皇暦は初代・神武天皇が即位したとされる西暦前660年を元年とする日本独自の紀元で、1872年に明治政府によって制定されました。

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🏇予想結果🏇


この画像を見て解るように強豪海外勢も集う素晴らしいレースに心から感動しております。
勝ちタイムがスペシャルウィークと同タイムかつ天皇賞(秋)からのローテーションに武豊騎手騎乗で次走で引退を迎えるとかあまりにドラマチック過ぎて泣かせます...😭😭😭

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奈良県とか鹿しかいないクソ田舎だろwwww

突如せんとくんがフルフルに変身をし
26の軍団を指揮し嵐を起こして
奈良以外を壊滅 奈良に帰っていく
ついでに奈良の出生率が45247倍に上がり
天皇が奈良に遷都する

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しかしそんな覇気も次第に衰え、1339年に52歳で崩御
『太平記』は晩年の後醍醐天皇の心境を「骨は南山(吉野)にうずまったとしても、魂は京都の空を飛び回りたい」と表現
望郷の想いも空しく、稀代の天皇は京に戻ることなく吉野の苔にうずもれた
 

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尊氏の後醍醐天皇愛は兎も角、後醍醐天皇への評価は「批判」から始まっている上、合理主義的な研究を進めるより前に様々なイデオロギーと結び付き複雑化してしまったことで、今度は「肯定」もしづらいというように非常に複雑な背景を持ちます
 

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後醍醐天皇に好意的な意見が出始めるのが、戦後に公職追放された歴史家平泉澄が唱えた「皇国史観」からです
まあ皇国史観自体は極端な天皇至上主義のイデオロギーという厄ネタなんですが、逆に言うとここまで極端な思想に行き着くまで後醍醐を擁護する向きはなかったという
 

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敵対した尊氏が実は後醍醐天皇を一番慕っていたと言われており、後醍醐天皇の崩御時には天龍寺を建立して大法要も行っている
これは祟り等を恐れての政治的な動きで特別おかしいことではないが、崩御100日目に尊氏が著した上記怪文書…もとい願文を見るに完全にキマッている
 

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昨年の冬コミ本『セイとスカイのなつやすみ』がメロンブックスで予約を再開しました!

シニア級の天皇賞秋の後、セイちゃんがじいちゃん家を訪ねるお話です
https://t.co/jA2MPy5Svm

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【創作幕末】山岡鉄舟先生

徳川の幕臣から新政府の天皇侍従に抜擢された男

大剣豪で筋金入りの江戸っ子で短気で快男児で
身長188cmの鬼鉄

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「黄金のような君徳」足利尊氏(足利家棟梁)
「君臨すること太陽の如く、我らが仰ぎ見ること雲の如くの王者」足利尊氏(征夷大将軍)
「陛下の穏やかで優しいお言葉が今もなお我の耳の奥から離れず胸が苦しい」足利尊氏(自称後醍醐天皇の弟子)

オイ、怪文書止めろ!!

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「物狂の沙汰」三条公忠(公卿)
「皇室の恥」花園天皇(持明院統・先代天皇)
「武家の世の中でも作りたいのか?」北畠親房(側近)
「色々改善しないと職を辞します」北畠顕家(鎮守府大将軍)
「帝の依怙贔屓が大乱を招いた」足利直義(南朝・武将)
 

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歴史学者の意見も様々で書籍によって評価が180度変わってくる。歴史上最も両極端な評価の天皇でしょう
因みに本作の監修を担当されている本郷和人先生は「先代まで積み重ねた官僚や続いてきた徳政を台無しにした」として批判的
では同時代の人物の批評も見てみましょう
 

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劇中での道誉評のように「凡人や無能の気持ちがわからない」から想定外の事態に対応できず、師直評のように「先進的な政策もあるが無駄が多く現実に即さない」机上の空論のような施策の多さが建武の新政の弱点でしょう
天皇のワンマンでどうにか出来る時代じゃなくなっていた
 

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くじゅ11/3の小竜と兄者の手合わせで注目を集める「湊川組」は、湊川の戦い(1336)に縁のある太刀3振のことだと思います。

(湊川の戦い 後醍醐天皇側の武将)
・新田義貞:「太平記」では、【鬼丸】と【鬼切】を佩刀して戦ったとされる。
・楠木正成:【小竜景光】を差料としたとの伝説がある。

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十月に即位した光仁天皇の血縁が親王・内親王となり、井上内親王が立后されました。
諱が山部王で後の桓武天皇、酒人内親王・能登女王・弥努摩女王が光仁の皇子&皇女ですね。後は関係が不明な人もいますがおおむね志貴皇子系の方々かと。
この段階では酒人内親王だけ「内親王」表記なんですね。

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孝徳天皇の皇子、有間皇子の謀反が進んでおりました。
まだ若いんだから早まるなよみたいな気持ちで見てしまう。そして相手が悪い。

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天下を朝廷に戻した後醍醐天皇が始めた建武の新政ですが、倒幕時に護良親王が令旨をバラ撒きすぎた反動が早速来る
後醍醐としては天皇の出す命令の綸旨を絶対としたいのに、護良が勝手に恩賞の約束をした令旨が邪魔になったのです
これが護良との軋轢の一つと言われている

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何と後醍醐天皇は配流先の隠岐から脱出
この時出迎えたのが三木一草の名和長高(年)で、海運業を営んでいた彼に因んで「帆掛船」の家紋と「名前が長くて高いのは危ないからこれで長生きしろ」と「年」の字を贈ったという
人心掌握術の高さが感じ取れる逸話です
 

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ただ箱根竹ノ下の戦いでの偽装降伏の前の手越河原で実の弟が戦死しており、本当に偽装だとするとあまりに犠牲を払いすぎである
擾乱でも実際に後村上天皇から「足利家を滅ぼせ」という綸旨が下されており、本当に尊氏を裏切るルートもあった
常に全力で博打を打つのが道誉流

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