画質 高画質

東京国立博物館のはにわ展で
魚形埴輪の影注目 お魚3匹泳いでいる

見学の醍醐味は影も鑑賞できること

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逃げ若武将名鑑【井伊行直】
状況的に考えて当時の井伊谷領主の行直と思われる
南朝の荘園を多数抱え、南朝支持の伊勢神宮と関わりが深いことに目を付けた後醍醐天皇が早い内から宗良親王を送りこんで抱き込んだ
遭難後の宗良親王も匿うが足利軍の猛攻には耐えられなかった
 

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特定記事がないけど早良親王の忌日は諸説ある中で十月十七日が有力なので過去絵上げておきます。
いくつかの史料などからの推察になりますが、
『西宮記』『江家次第』→十月七日
醍醐寺本『諸寺縁起集』所収「両処記文」→十月十七日
『新撰年中行事』『大鏡』『大安寺年中行事次第法式』
で多分後者

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【仮装したぞ!⑬】

任地双子の弟くんで赤ずきん🐺

―寄り道するのも、お使いの醍醐味だよね―

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球神転生最新話
「球場沸騰(ロック・ザ・ワールド)」裏サンデーにて公開スタート致しました!! https://t.co/Rw0DspRH8A
野球の醍醐味、タッチプレイ回です!

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愛野美奈子
誕生祭リク:ローアングルブルマ

ローアングルブルマっていうと私の中では後ろから撮影するイメージが強いのですが、前回レースクイーンで作っちゃったからな~ということで前からです!ぐへへ🤤

お臍がちらりみえているところもローアングルならではの醍醐味😍😍

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キャラつくんのたのし~!一人遊びの醍醐味~~!!

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武士への差別意識は著作に結構著れており『神皇正統記』では「武士連中は全員数代の朝敵で家を失わないだけ有難いと思え」と記述
同著では南朝方の大物楠木正成と新田義貞の戦死の部分もほぼ無視してます
尊氏もずっと「高氏」表記。これは尊氏表記を続けた後醍醐がおかしい
 

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北畠家自体が大覚寺統に代々仕える近臣ですが、親房は後醍醐天皇の父である後宇多天皇に仕えた「後の三房」の一人
後醍醐帝からも皇子の世良親王の世話を任せられるほど信任は厚かったのですが親王が急逝したことを嘆き出家
政界を引退したため倒幕運動には加わっていません

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逃げ若武将名鑑【北畠親房】
北畠顕家の父で後醍醐天皇一番の側近。南朝の実質的な最高指揮官
謀略を得意とした寝業師。各地を駆けずり回り、同時に学識も広めていくなど顕家とは別ベクトルの「戦う貴族」であった
著作『神皇正統記』は後世の歴史観に大きな影響を及ぼす

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仕事終わったぁ。今月はもう完全に死にかけてるから、来月は絶対に旅に出る。誕生月だしちょっとくらい自由かつ贅沢してもよかろうなのだ。血涙流しながら働いて貯金して、良いものにパーっと使うのがサラリーマンの醍醐味よ。おやすみ。

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この二年で絵の技量は上がっていくけど
依頼は減るという経験をしました…🙂

アレの影響でしょうけど…😅
諦めずに技量を上げ続けます!😠

逆境に抗う事こそ人生の醍醐味なのです…😌💖 https://t.co/lI5n3kDCwK

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『太平記』では鎌倉滅亡後に高時から諏訪家を通して時行に渡され、中先代の乱の後に時行の偽装死体が手にした鬼丸を義貞が手に入れた…とありますが、別の話では鎌倉滅亡時に義貞が既に手に入れてたとか、後醍醐天皇に渡されさらに結城宗広に下賜されたとか所有者がバラバラ
 

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「鬼丸」は北条得宗家のものでしたが、鎌倉滅亡時に義貞が奪ったとされるも『太平記』では諏訪家を通じて時行に渡され、中先代の乱終結後に時行の偽装死体から義貞に渡ったと書かれ差異がある
別の記録では後醍醐天皇のものになり、1336年に結城宗広に下賜されるなどバラバラ
 

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湊川での敗戦後、勝手に足利と講和を結ぶ後醍醐天皇に不信感を募らせた新田義貞
その後、後醍醐の皇子である恒良親王と尊良親王を連れて北陸に渡りますが、この時の義貞には既に独立の機運があったと言われます
即ち皇子を頂点に据えた南北朝に次ぐ第3の政治権力「北陸王朝」

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逃げ若武将名鑑【新田義貞(真の獅子)】
歴史に名高い新田義貞
新田義貞には3つの選択肢があった。足利庶流として生きる道、後醍醐天皇の配下として生きる道、そして最後まで野生のままに奔る道
果たして義貞公は一人でも戦い抜く道を選ばれた。彼こそ真の獅子である

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醍醐先輩お誕生日おめでとうございます再掲🎉

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醍醐さん誕生日おめでとう!🎂🎉

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捕縛された後の後醍醐帝は敗戦したとは思えぬほどのふてぶてしさで「今回は天魔の仕業である。寛大に赦せ」と宣う豪胆さはどうかしている
楠木や護良親王はゲリラ戦を続けてたとはいえ、隠岐に流され、近臣の悉くを処刑された後醍醐帝の反乱はここで終わる
……筈だった
 

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