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・グランソンの戦い:軍を再編させようとしたら異母兄による後退方法がマズすぎて総崩れ
・ムルテンの戦い:奇襲を警戒して数回偵察を出すも、決戦前日の大雨で辺りが泥濘化したため大軍の移動は困難と見て警戒を解く→その直後に敵の大軍襲来で総崩れ
これもはやシャルル突進公というより不憫公では
グランソンの戦いにおけるブルゴーニュ軍の大潰走の要因は指揮系統の混乱や兵達の命令誤認などが言われますが、なぜシャルルはその様な判断ミスを犯したのか?
個人的には、1475年5月23日に行われたノイス近郊における帝国軍との野戦の経験、そしてスイス軍の数の暴力が大きく関わっていると思います
シャテル=ギヨン領主ルイ・ド・シャロン
1476年のグランソンの戦いでブルゴーニュ軍第1陣の騎兵隊指揮官を務める
ルイは騎兵突撃の先頭に立ってスイス軍の歩兵方陣に肉薄して斬り進み、敵の旗手を斬り伏せてシュヴィーツの部隊旗を奪いかけるが多勢に無勢、奮戦空しく28歳の若さで戦死した
ブルゴーニュ戦争のグランソンの戦い(1476年)を見る限り、槍衾相手には小細工を弄さず、犠牲も厭わない、いとも苛烈なる肉薄突撃が最善策の一つなのではないかと感じた(この戦闘ではブルゴーニュ軍の騎馬隊の一隊がスイス軍の方陣に肉薄し、方陣内の旗手辺りまで深く斬り込んでいる(結局負けたけど))
昨日は即うたた寝ガチモードに入ってしまって修正版を載せれなかった…
グランソンさんのメッシュを忘れていたんです万死…( ˙-˙ )
すみませぬ…すみませぬ…_:(´ཀ`」 ∠):