1473年、ハプスブルク朝の命運を左右する会談がトリーアで行われた
優柔不断な皇帝フリードリヒ3世の会談相手は、外来諸侯の中でもボヘミア王、デンマーク王、ハンガリー王と並び当時の帝国内で大きな影響力を持っていたブルゴーニュ公シャルルである
シャルルの狙いは娘マリーをフリードリヒの息子→

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1701年1月18日、ブランデンブルク大選帝侯フリードリヒ3世が極寒のケーニスベルクにて戴冠式を行い「プロイセンにおける王」フリードリヒ1世となる。3枚目は戴冠式後にプロテスタント司教から油注ぎを受けるフリードリヒ1世(続)

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神聖ローマ皇帝にしてハンガリー王、ボヘミア王、オーストリア公だったアルブレヒト2世(5世)の遺児で、アルブレヒト系ハプスブルク家の最期の相続人だったラディスラウスの顔が復元。

彼の死をもって家系は断絶、分家の皇帝フリードリヒ3世が権利を相続しました。

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1月25日 フリードリヒ3世と 結婚(1858年)
プロセイン皇太子 と英国王女ヴィクトリアが結婚し、式において が演奏され、以降、結婚式の定番曲となりました。

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なかったことにしていいとか言いやがった担任め、見よ!フリードリヒ3世のカラー写真だぞ!
https://t.co/cA4wxHTgK6

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デューラーの父親 Ajtósi Albrecht の自画像。ニュルンベルクで名声を博し、フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝) の依頼に応じて作品を制作したこともあるらしい。子供が18人もいたとか (そのうち成人したのは三人だけ)

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