今日は淡河(あわが)定範殿です。
播磨別所氏の重臣で別所長治の義理の父にあたります。
長治が織田方から離反する際は、それに追従し三木城防衛のため淡河城に籠城します。
鎮圧に来た羽柴軍を数々のゲリラ作戦で苦しめた定範でしたが、衆寡敵せず最後はよく分かっていません。

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今日は八柏(やがしわ)道為殿です。
出羽国小野寺氏の重臣として、最上氏と対峙します。近在一の知将と恐れられており、最上義光も攻略に苦労したほどです。
更に重要拠点の湯沢城を任されるなど重宝されましたが、最終的には義光の謀略に主家が騙され、暗殺されます。

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今日は真柄直隆殿です。
真柄氏は越前の国人でしたが、朝倉氏には半臣従の状態でした。
家中一の剛勇で知られており姉川合戦では大太刀を奮って徳川軍に猛攻を加えましたが、味方の敗色が濃厚になると殿して単身突撃し討死しました。
大太刀の長さは175cmあったらしい...

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今日は北畠具教殿です。
伊勢国司の家に生まれた具教は青年期に中納言任官・北伊勢平定など順調な武将人生をスタートさせます。
しかし信長の上洛軍が伊勢に侵攻してくると和睦して信長次男の信雄を養子として迎えますが、三瀬の変で息子や家臣共々暗殺されてしまいました。

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今日は諏訪頼満殿です。
信濃国諏訪地域に割拠していましたが父や兄が暗殺されると10歳で家督を継ぎます。
その後内訌を収め諏訪地域を統一すると甲斐の武田信虎と熾烈な戦いを繰り広げます。
一進一退の攻防が続きましたが最終的には和睦し諏訪氏の最大勢力を築きました。

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今日は高力清長殿です。
松平元康に仕え始め清須同盟締結や三河一向一揆鎮圧でも功を立てており、岡崎奉行を歴任するなど派手な活躍はないものの家中では縁の下の力持ちでした。
一向一揆の際経典や仏像を保護し寺の再建にも協力したため「仏高力」と呼ばれました。

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今日は磯野員昌殿です。
磯野氏浅井亮政が台頭すると浅井氏に仕えるようになります。
六角氏との戦いで武功を挙げ軍の先鋒を任されていました。姉川の戦いでは「員昌の姉川十一段崩し」と称される猛攻をかけ信長に迫りますが、あと一歩及びませんでした。後に降伏し信長に帰順。

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今日は大関高増殿です。
元は太田原氏の出身で大関家に養子として入ります。主家である那須家とは反目し勝ちで度々合戦に及びました。
最終的に剃髪して主家に帰参した後は権謀術数で権力を固め、小田原征伐では独立した領主として承認されました。

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今日は吉良親貞殿です。
長宗我部国親の次男として生まれ吉良氏の名跡を継ぎました。
土佐統一の過程で多くの合戦に参加し兄元親の名代を勤める事もありました。四万十川の戦いでは数に勝る敵軍を突き崩し一条軍を壊走させています。
しかし35歳で急逝してしまいました。

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今日は戸沢盛安殿です。
戸沢氏は盛安の父の代から始めた家臣団統制や領国整備が功を奏し、盛安は領土拡大を進めます。「夜叉九郎」と恐れられる一方、慈悲深い一面もあったそうです。
小田原征伐に参陣する道中で増水した川を根性で泳ぎ切るなどエピソード満載。

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