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真備が天平勝宝の遣唐使に加わった! ということで発足から一年以上経って真備を追加することになった経緯を知りたいですね!! しかも副使だけどこの時点で先に任命されてる大使清河副使古麻呂よりも真備の位階が上という。 (この後調整されました)
天平勝宝の遣唐使が発足。 歴代遣唐大使の中でダントツかわいそうな藤原清河をどうぞよろしくお願いいたします。 (真備の副使任命は後日)
玄昉は天平七年に唐から帰国し、真備同様にどんどこ出世していきますがこの年に聖武の母宮子の看病をしたことでピークを迎えますね。 疫病流行もあり、こういう不安定な時期だからこその出世とも言えるかも。
ロボット四原則 KPC/HO2 蒼(シタッパ) PC/HO1 四奈川 天平(404) 泣いてます。良過ぎて。
天平宝字八年九月に起きるどでかい事件
奈良時代の天平九年は疫病流行が本格化、藤原四兄弟では二人目の四男麻呂が薨去です。 有名な坂上大伴郎女のこじこじの相聞歌は麻呂の歌に和したものですが、この二人もっと長続きしてたらハイレベルな歌の殴り合いが見れたかもしれないなと思わなくもない。
「天王貴平知百年」の意は「天皇の政治は貴く平和で、百年も続くであろう」みたいな感じで、後に「天平」と改元される所以の亀です🐢 何度も言ってるけどとりあえず奈良時代に行けたらこの亀を観たいよね。
天平応真仁正皇太后こと聖武天皇の皇后、光明皇后(藤原光明子)が崩御。元のイメージでは、大変な時期の聖武天皇を支えた慈愛に満ちた皇后でしたが、最近では走り出した聖武天皇のアクセルをギャンギャンにした人みたいなイメージになっています。あと強火の父不比等推し。
天平神護二年に東山道巡察使となった淡海三船、道鏡政権下で道鏡と同族の弓削薩摩に手厳しかったとのことで逆に処罰されるとの勅。そもそも下野国司が不正してるし、三船悪いんかな??って感じですがそこんとこうまくやれなかった辺りが三船だな~って感じです。好きです。
大伴氏で正三位中納言まで昇った貴重な人物なのになぜか印象が薄い(歌や詩がなくデカい事件に連座してもないせい)牛養なんですが、自分で作る大伴氏系図でもいつも端折ってしまう、そんな人物。吹負の子が天平勝宝まで生きてるのも結構すごいけど。甥の古慈斐ももう五十越えてる。 (吹負絵でにごす)
そんな天平勝宝度の遣唐使、大使の藤原清河が阿倍仲麻呂と共に帰国の途次遭難して唐に舞い戻っていることが伝わり、それを迎える為の迎入唐大使使が任命されました。色々あって結局任務果たせない。かわいそうな清河…
天平勝宝度の遣唐使、第二船の副使大伴古麻呂が鑑真和上を連れて帰国。前年十二月二十日に薩摩国阿多郡秋妻屋浦に漂着してました。 一・二・三船は蘇州より出帆して同時に一度沖縄に漂着してました。そこから運命が別れてしまいましたね。(清河方向チラッチラッ)
袁晋卿、天平七年に遣唐使と共に来日しその後帰化しここで清村宿禰を賜姓されました。十八かそこらでなんで日本に来ようと思ったのかめちゃくちゃ気になってます。ここでの賜姓は玄蕃頭として唐使を迎えるのに日本人として対応させるためではという話を本で読みました。
天平勝宝二年九月に大使藤原清河&副使大伴古麻呂で発足した遣唐使、一年以上経って吉備真備が副使に任命されましたが、副使二名体制は異例のことです。真備が従四位上で清河が従四位下、古麻呂が従五位上なのでこの時点で真備が一番上位という…。 (出発前に清河&古麻呂が昇叙されます)
来唐していた渤海使に随い、丁度渤海からも日本への使節が計画されてたので来日する渤海使の船で帰国することができました。ただしこの渤海使も一部遭難して大使が亡くなってます。なんか散々でしたね。 (再掲絵の左の朝元は天平六年帰国)
積極的に天長節をお祝いする光仁天皇の誕生日です。 天長節は唐の玄宗が天宝七年(748)から始めたようなので天平勝宝の遣唐使辺りによって伝えられたものかと思われます。 次の桓武の代では既に言及がなくなってしまって残念…。
天平勝宝二年九月廿四日 任遣唐使。以從四位下藤原朝臣濂河爲大使。從五位下大伴宿祢古麻呂爲副使。判官主典各四人。 遣唐使を任命した。従四位下の藤原清河を大使に任じ、従五位下の大伴古麻呂を副使に任じた。判官・主典はそれぞれ四人を任じた。
奈良にはパリピ天平人の集いがあります #天平七夕行列 #平城京天平祭
天平の遣唐使は歴代の中でも帰途が屈指の波乱の展開で、順当に帰国したのは第一船のみ。どうやらこの第一船に吉備真備や玄昉が同船していたようなので真備持ってるなあ。紆余曲折あっても第二船(出発から三年後)と第三船(出発から六年後)はなんとか帰国できましたが第四船は消息不明。
天平度の遣唐使の発足です。 任命記事には出てない人も含めおおよそメンバーは以下の通り。 遣唐大使:多治比広成 副使:中臣名代 判官:平群広成・田口養年富・紀馬主・秦朝元 総勢594人 第一船・多治比広成 第二船・中臣名代 第三船・平群広成 第四船・田口養年富