天正6年(1578)3月13日(旧暦)、上杉謙信(弾正少弼輝虎)没🙏。前年9月、加賀手取川において柴田勝家率いる織田の大軍を撃破し、信長にとって最大の脅威となっていました。3月15日には遠征への出陣予定だったとされ、直前の急死が惜しまれます。享年49。#戦国武将かるたレジェンド48

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天正11年(1583)2月23日(旧暦)、信濃岩尾城攻めで依田信蕃が討死🙏。武田旧臣の信蕃は、本能寺の変後に徳川家康に仕えます。真田昌幸を徳川方にし、信濃に侵攻した北条軍の補給路を遮断するなど、天正壬午の乱での家康の甲信2国制圧に大きく貢献しました。#戦国武将かるたレジェンド48

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天正13年(1585)2月22日(旧暦)、天正遣欧少年使節がローマ教皇に謁見🙇‍♂️。伊東マンショ、千々石ミゲルら4人です。イエズス会には、教皇及びスペイン、ポルトガル両王への布教支援と、帰国後、キリスト教世界の偉大さを少年らに語らせるねらいがありました。#戦国武将かるたレジェンド48

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慶長18年(1613)1月25日(旧暦)、池田三左衛門輝政没🙏。池田恒興の2男で、照政の字を長く用いました。織田信長、羽柴秀吉に仕えて各合戦に参加。徳川家康にも信頼され、関ヶ原合戦後に姫路城主52万石に。「松平播磨宰相」「西国将軍」とも称されました。#戦国武将かるたレジェンド48

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元亀3年(1573)12月1日(旧暦)、高橋統増誕生㊗️。立花宗茂の実弟で、宗茂が立花家を継いだので高橋家嫡男となります。兄同様、大友家臣から豊臣直臣となり、朝鮮出兵では兄の窮地を救いました。宗茂は「世に主膳(統増)ほど大剛の者なし」と評しています。#戦国武将かるたレジェンド48

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天正3年(1575)11月26日(旧暦)、秋山虎繁没🙏。武田24将の一人で、武田信玄の命で美濃岩村城を攻略。女城主で織田信長の叔母(一説におつや)を娶ります。しかし長篠合戦の敗北後、織田の攻勢の前に岩村城は開城。虎繁夫妻は長良川河畔で処刑されました。#戦国武将かるたレジェンド48

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慶長19年(1614)11月5日(旧暦)、大坂冬の陣で豊臣方の薄田隼人正兼相が平野口に出陣🐎。別名岩見重太郎ともいわれる兼相ですが、その後、不在時に守将を務める博労淵砦を落とされます。橙武者のそしりを受けた兼相は、雪辱を果たす機会をうかがいました。#戦国武将かるたレジェンド48

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永禄4年(1561)9月10日(旧暦)、第四次川中島合戦八幡原の戦い勃発⚔️。信濃川中島をめぐる武田信玄と上杉謙信の戦いで、両者の一騎討ちの伝説でも知られます。戦いは痛み分けでしたが、武田軍は信玄の弟・典厩信繁、諸角虎定、山本勘助らが討死しました。#戦国武将かるたレジェンド48

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慶長5年(1600)8月21日(旧暦)、東軍諸将が岐阜城攻略のため清須城を出陣🏯。当時、岐阜城主の織田秀信(信長嫡孫)は西軍に与していました。池田輝政らは河田から木曾川を渡り、福島正則は同じく加賀野井から渡河、いずれも織田方との衝突が起こります。#戦国武将かるたレジェンド48 

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元和9年(1623)8月4日(旧暦)、黒田長政没🙏。黒田官兵衛の嫡男で、幼少時には人質として羽柴秀吉に預けられ、竹中半兵衛に命を救われたことも。関ヶ原合戦では吉川広家、小早川秀秋を東軍に内通させました。東軍勝利の立役者といっても過言ではありません。#戦国武将かるたレジェンド48

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天正14年(1586)7月27日(旧暦)、高橋紹運没🙏。大友氏重臣で立花宗茂の実父です。退勢の主家を支え、島津軍の侵攻を筑前岩屋城で迎撃。降伏勧告に「主家の恩、仁義を忘れるのは鳥獣に等しい」と応え島津勢を感嘆させました。半月の徹底抗戦の末の討死です。#戦国武将かるたレジェンド48

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元亀元年(1570)6月28日(旧暦)、真柄十郎左衛門直隆没🙏。姉川の合戦での討死です。越前朝倉家に仕える直隆は武勇に優れ、約175cmの太郎太刀を愛刀とする豪傑でした。姉川で味方の敗北が迫ると、単騎敵勢に斬り込んで退却の時を稼ぎ、討死したといいます。#戦国武将かるたレジェンド48

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天文3年(1534)4月22日(旧暦)、細川與一郎藤孝誕生㊗️。三淵晴員の次男で細川氏の養子となります。幕臣として13代将軍足利義輝に仕え、義輝討死後、その弟義昭の15代将軍就任に尽力。義昭が織田信長と決裂すると信長に仕え、明智光秀の与力として活躍します。#戦国武将かるたレジェンド48

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慶長4年(1599)閏3月3日(旧暦)、前田利家没🙏。織田信長の下で「槍又左」と怖れられ、豊臣政権では五大老の一人、秀頼の後見を託されるほど秀吉に信頼されました。晩年は徳川家康の野心を疑い、臨終の際「地獄で閻魔や鬼と一戦してくれるわ」とかぶきます。#戦国武将かるたレジェンド48 

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慶長18年(1613)1月25日(旧暦)、池田三左衛門輝政没🙏。池田恒興の2男で、照政の字を長く用いました。織田信長、羽柴秀吉に仕えて各合戦に参加。徳川家康にも信頼され、関ヶ原合戦後に姫路城主52万石に。「松平播磨宰相」「西国将軍」とも称されました。#戦国武将かるたレジェンド48

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永禄11年(1569)1月10日(旧暦)、色部勝長没🙏。上杉謙信の宿老で歴戦の将です。越後北部の揚北衆の一人で、第四次川中島合戦の武功により謙信から「血染めの感状」を与えられました。同じ揚北衆の本庄繁長の乱で、村上城を攻囲中に討死したといわれます。#戦国武将かるたレジェンド48

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永禄11年(1568)12月3日(旧暦)、黒田吉兵衛長政誕生㊗️。黒田官兵衛の嫡男で羽柴秀吉の人質となり、長浜城で秀吉正室おねに養育されます。後に官兵衛の裏切りを疑った織田信長が長政の処刑を命じるも竹中半兵衛が救い、長政はその恩を終生忘れませんでした。#戦国武将かるたレジェンド48

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元和9年(1623)8月4日(旧暦)、黒田長政没🙏。黒田官兵衛の嫡男で、幼少時には人質として羽柴秀吉に預けられ、竹中半兵衛に命を救われたことも。関ヶ原合戦では吉川広家、小早川秀秋を東軍に内通させました。東軍勝利の立役者といっても過言ではありません。#戦国武将かるたレジェンド48

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元亀元年(1570)6月28日(旧暦)、真柄十郎左衛門直隆没🙏。姉川の合戦での討死です。越前朝倉家に仕える直隆は武勇に優れ、約175cmの太郎太刀を愛刀とする豪傑でした。姉川で味方の敗北が迫ると、単騎敵勢に斬り込んで退却の時を稼ぎ、討死したといいます。#戦国武将かるたレジェンド48

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慶長20年(1615)5月7日(旧暦)、大坂夏の陣の決戦、天王寺・岡山の戦いが勃発⚔️。毛利勝永が幕府軍を次々と破る奮戦の中、茶臼山から出撃した真田信繁は徳川家康本陣に突撃し、家康が自刃を覚悟するほどの猛追撃の末、討死🙏。真田日本一の兵と謳われました。#戦国武将かるたレジェンド48 

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