第二次世界大戦では中華民国は一時現代のウクライナのように多国籍の戦車群を運用しました。

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「嘘だろ?」
と驚くほどでもないが、マリーアントワネット王妃は当時のパリでも稀代の漆器コレクターとして知られていた。
「私は宝石(ジュエリー)よりも専ら漆器(ジャパン)ね」
とは、まさに流行の最先端をゆくセレブであった彼女らしいコメント。

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1912-1947年の間、兄(クリスチャン10世)がデンマーク国王、弟(ホーコン7世)がノルウェー国王として君臨していた時期があった

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有名なフランシスコ=ザビエルの絵は長崎ではなく大阪の茨木市で1920年に見つかったもの。隠れキリシタン=長崎というイメージが強いが、茨木市にも隠れキリシタンの里があり発見されたのは大正時代。
ちなみに、この絵の現物は神戸市立博物館が所蔵。

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宴会で酒を注がされたり皿洗いさせられたり傘持ちさせられたりの屈辱を受け、挙句の果てに殺された皇帝がいる

しかも二代(叔父-甥)続いて

なおやらせたのは自称劉備(蜀漢)の後継者、やらされたのは司馬懿の子孫

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例の米津玄師のイメージ画像でよく使用されている東大寺俊乗堂の重源上人坐像(国宝、一枚目)だが、実はこれ以外にも重源像は存在する。

有名な所だと三重県・新大仏寺像(重文、二枚目)、山口県・阿弥陀寺像(重文、三枚目)など。

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実は虫歯が酷い事が発覚した人。

持病の頭痛の原因って間違いなくコレじゃない?

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藤原直哉の「日本と世界にひとこと」 2022年4月13日 歴史は繰り返す https://t.co/6ifiod9Foh より    ※🎚️第二次世界大戦後は世界中で「逆コース」が進行していた⁉️

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食べ物の恨みは怖い。

劉邦の兄嫁は「お前に出す飯ねえから」と暗に伝えるため鍋の底をガリガリ鳴らしたことがある。

劉邦が秦を倒して前漢の初代皇帝になった時、兄嫁の息子にも爵位を与えた。

その名も「羹頡侯(鍋ガリガリ侯)」

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参勤交代の大名行列構成員は、藩の規模にもよるが、口入れ屋(派遣業)の紹介による臨時職員が多く含まれていた
 なので桜田門外の変では浪士襲撃に対し命を張る者が少なく、彦根藩が口入れ屋に苦情を云うと逆に派遣拒否出来るほど発言力が強かった

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清須会議で信長の孫・三法師を奉って主導権を握った羽柴秀吉は、同年12月には丹羽長秀・池田恒興らと共に織田信雄を家督として認め、その家老として小早川隆景らに書状を送っている
 勝家との決戦前に徳川家康を割り込ませない為の牽制だと思われる

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徳川家康の薬好きは筋金入りで、合戦陣中でも薬研と薬箪笥は常備していた
 家康調剤の漢方『紫雪』は風邪に効果覿面だったが配合は秘法とされ、たとえ側室が病床に伏しても『医者に視て貰え』と言い頑なに使わなかった

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“安土城”は、織田信長によって築かれ…

る前から在った。
織田信長に対抗した南近江守護職・六角承禎が築いた支城群の一つと思われる

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今川氏真は剣豪・塚原卜伝から香取新当流を指導伝授されている

 なお香取新当流は鎧武者と対峙した際の総合格闘術なので、氏真はその気になればその辺の木っ端武者なら組討したり動脈掻っ捌いて血の海に沈める事が出来る事になる

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毛利元就は教訓状で長男隆元・次男元春・三男隆景の結束を説き、露塵ほどの仲違いも滅亡に繋がると戒めているが、他の子供達に関しては“虫けらの様な幼子達”扱いで、器量が良ければ領地をやり不器量なら処遇はどうでも良いとまで言っている

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平安時代~鎌倉時代~室町時代では見た目で身分階級を区別できない。

平安~室町の京と鎌倉では2人の服装の印象も以下のように変化していきます。諸説ありますが、平安末期から直垂が他の身分階級にも行き渡っていくのでますます分かりづらくなります。

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中世ヨーロッパで紳士の間でシルクハットやマント姿が流行したのは窓から降り注ぐ排出物から衣服を守る為、フープスカートの流行は庭の茂みや部屋や廊下の隅で用を足しやすいため。
香水が発達したのは体臭(風呂に入らない)や排出物の匂いをごまかす為。

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前九年の役と後三年の役で奥州藤原氏が誕生した。
前九年の役の戦後、清原氏の養子として潜り込んだ
藤原清衡が清原家を乗っ取り、父の仇である源義家を
陸奥支配者の座から蹴落として 父の故郷を取り戻す復讐劇 解説② (画像は角川版)

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