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玄昉といえば聖武天皇生母の藤原宮子を看病して母子の対面を果たしたというこの件が有名ですね。 中宮亮である真備も昇進してますが玄昉との関係なのかなんらかこの件に関わってるようです。帰国してから三年足らずで従八位下から従五位上はすごいですね。
相当数の将来品を持ち込んでる真備と玄昉が同船してよく無事に帰り着いたなぁと思う。請益生の秦大麻呂の献上した問答六巻なんかもあったみたいだし。
真備が天平勝宝の遣唐使に加わった! ということで発足から一年以上経って真備を追加することになった経緯を知りたいですね!! しかも副使だけどこの時点で先に任命されてる大使清河副使古麻呂よりも真備の位階が上という。 (この後調整されました)
筑紫で起こった広嗣の乱では朝廷帰属の隼人が活躍してますね。 広嗣はもう少し粘ります。 再度玄昉と真備を取り除いてくれたら、という旨の話をしてますが、実際ここの二人を朝廷側で遠ざけたりしたとしたらどうなってたんだろう。 (実際にこの乱の数年後からその方向になっていくけど)
めっちゃ長いツリーになりましたが、とても好きな記事です。これが遺ってるだけで光仁朝まで真備が生きてくれてて良かったと思える。 光仁天皇が即位前の皇太子時代に辞職を願う啓(皇太子宛なので啓)を奉っていて、それに対する光仁天皇の詔です。これも端折らずに載せてくれててよかった。
吉備真備忌日です! 度々言うけど藤原麻呂と同じ年の生まれなので真備の生命力に驚かされます…2回渡唐して生還だし… 久々に新規絵描いたけど久々すぎて苦労したし若くなった。 (若くなる=まだ吉備朝臣ではない)
天平勝宝の遣唐使が発足。 歴代遣唐大使の中でダントツかわいそうな藤原清河をどうぞよろしくお願いいたします。 (真備の副使任命は後日)
この段階では前線に出てないだろうから記事にも名前出て来ないんですが、真備の軍略による功績かと思うと胸アツ。こういう人はちょっと遠くに飛ばすだけじゃだめなんですよ仲麻呂ォ…
仲麻呂は真備を明らか意図的に遠くに飛ばしてるよなー嫌いなんだろうけどでも新羅征討計画ではその技術有効活用してるし、コンプレックスとのせめぎあいがありそうで面白い。ここで立場逆転するのも面白い。
今年も秋の政変月間的な時期がやってきますが、その前哨戦みたいな藤原広嗣による玄昉&真備排除上表文です。『群書類従』所収の「松浦廟宮先祖次第并本縁起」にその上表文が見えますが偽作説もあるとはいえどそれなりにこんな感じだったんだろうなあと思わせられます。
玄昉は天平七年に唐から帰国し、真備同様にどんどこ出世していきますがこの年に聖武の母宮子の看病をしたことでピークを迎えますね。 疫病流行もあり、こういう不安定な時期だからこその出世とも言えるかも。
遣唐押使の多治比県守率いる霊亀度の遣唐使(出発は養老年間)が発足です。主なメンバーは以下。 歴代遣唐使の中でも大成功回ですね。 遣唐押使:多治比県守 遣唐大使:阿倍安麻呂→大伴山守 遣唐副使:藤原馬養(宇合) 大通事:伊吉古麻呂 留学生:吉備真備・阿倍仲麻呂・井真成(たぶん) 留学僧:玄昉
あと薨卒伝にこうやって血縁でもない第三者の名前が出てくるの、大変ときめきますね…。 他の例では真備の薨伝の仲麻呂Aとか。
古慈斐は壬申の功臣の子孫だし不比等にも才を認められてたそうで、大伴氏の中では有力な人だったんですけどこの後奈良麻呂の乱にも連坐して土佐に配流、復帰は光仁朝。長生きしてよかったねって感じです。この人ほぼ真備と同世代で更に真備より長生きですね。とどめ刺さないと死なない大伴氏すご。
出なかったけど、VS藤原側で基本勝者の真備でも置いておくわ。この場合藤原さんが一方的にぎゃんぎゃんしてる印象だけど。
吉備真備お迎え記念 #パズあに
GW期間であまり上げてない気がするのでこの記事上げておく。はっきり真備が行なったこととして明記されてるので。『前賢故実』の吉備真備はこの記事を元にしてますよね。なんでこの場面選んだんだよ。ひょっこりはんかよ。かわいいよ。
ドラマ「大仏開眼」ではこの将来した中にある方響を真備がずっと背負って持ち帰り、諸兄や聖武に喜ばれてる場面が印象的でした(暦とかそっちのけで)。 正倉院に方響に使われたらしい鉄板のみが9枚遺っていて、これがこの時のアレだったらときめきますね。
当日をスルーしてしまったけど四月二十一日に元正太上天皇が崩御、その喪葬儀礼に関する任命記事です。真備が居ますね。大伴氏は居ないんですね。 聖武の治世、大部分この方が太上天皇としていらっしゃったのはよかったと思う。
真備が唐から『金烏玉兎集』を持ち帰って阿倍仲麻呂の子孫(後に安倍晴明)に与えたことなどから真備が陰陽道の祖とされていたみたいな話、何言ってんの???みたいになったし、私の中の陰陽師が最近は迷走してる。 (って思った時に描いた絵)