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古慈斐は壬申の功臣の子孫だし不比等にも才を認められてたそうで、大伴氏の中では有力な人だったんですけどこの後奈良麻呂の乱にも連坐して土佐に配流、復帰は光仁朝。長生きしてよかったねって感じです。この人ほぼ真備と同世代で更に真備より長生きですね。とどめ刺さないと死なない大伴氏すご。
出なかったけど、VS藤原側で基本勝者の真備でも置いておくわ。この場合藤原さんが一方的にぎゃんぎゃんしてる印象だけど。
GW期間であまり上げてない気がするのでこの記事上げておく。はっきり真備が行なったこととして明記されてるので。『前賢故実』の吉備真備はこの記事を元にしてますよね。なんでこの場面選んだんだよ。ひょっこりはんかよ。かわいいよ。
ドラマ「大仏開眼」ではこの将来した中にある方響を真備がずっと背負って持ち帰り、諸兄や聖武に喜ばれてる場面が印象的でした(暦とかそっちのけで)。 正倉院に方響に使われたらしい鉄板のみが9枚遺っていて、これがこの時のアレだったらときめきますね。
当日をスルーしてしまったけど四月二十一日に元正太上天皇が崩御、その喪葬儀礼に関する任命記事です。真備が居ますね。大伴氏は居ないんですね。 聖武の治世、大部分この方が太上天皇としていらっしゃったのはよかったと思う。
真備が唐から『金烏玉兎集』を持ち帰って阿倍仲麻呂の子孫(後に安倍晴明)に与えたことなどから真備が陰陽道の祖とされていたみたいな話、何言ってんの???みたいになったし、私の中の陰陽師が最近は迷走してる。 (って思った時に描いた絵)
記事に関係なく真備とうさぎでも置いておく。
よく知られた内容ですが、中宮亮の真備が玄昉を連れてきたのか、あるいは玄昉が真備を推したのかとか設定(説)が割れてる感じですが、もしくは普通に皇家が二人を引き寄せてるのか、どれにしても二人に繋がりがある感じですね。 (そして藤原広嗣の乱へ)
多分真備の弟であろう乙吉備&真事・広の三人が吉備朝臣を賜わる。 真備はいい兄さんだと信じてる…
天平勝宝二年九月に大使藤原清河&副使大伴古麻呂で発足した遣唐使、一年以上経って吉備真備が副使に任命されましたが、副使二名体制は異例のことです。真備が従四位上で清河が従四位下、古麻呂が従五位上なのでこの時点で真備が一番上位という…。 (出発前に清河&古麻呂が昇叙されます)
真備が吉備朝臣になっておなじみ吉備真備になったよ! 吉備氏イメージがつよすぎてうっかり下道氏時代でも吉備真備にしてしまいそうになる。
割とギリなので現代語訳は省きますが、真備の忌日でした!! 習作がてらの新規絵。 正直、光仁朝で薨去で良かった気がする。
藤原広嗣による玄昉&真備排除上表デーですね。 『群書類従』所収の「松浦廟宮先祖次第并本縁起」にこの上表文とされるものがあります(偽作説有)。 内容的には玄昉批判に集中した内容だった記憶。 後に広嗣の乱へとつながる事件です。
天平の遣唐使は歴代の中でも帰途が屈指の波乱の展開で、順当に帰国したのは第一船のみ。どうやらこの第一船に吉備真備や玄昉が同船していたようなので真備持ってるなあ。紆余曲折あっても第二船(出発から三年後)と第三船(出発から六年後)はなんとか帰国できましたが第四船は消息不明。
真備が呼んでないのに寄ってきて一方的にイチャモンつけてきてあっち行けした挙句に自分が消えたイメージの二大藤原さん。
仲麻呂A上げたから対の真備も上げておくね。 遣唐使の話題で仲麻呂や真成の話だけして真備みたいな最たる成功例を上げない辺りがもう恣意的なんですよ。 悲劇性の話なら帰れなかった藤原清河と大使代行で海に沈んだ小野石根の話をしてやるべき。(定期)
泉は右大臣の父を笠に着てたとはっきり書かれてはいないと思うんですけど、ちょっと性格に難有りだったとはいえ、父の真備も順風満帆ではないし生い立ち考えたら仕方なくない?という気もする。 あと泉はやっぱり桓武と合わなかったか嫌われてたんじゃないですかね…早良の件の辺りで左遷されてるし。
#歴史クラスタ推し語り祭り タグお借りします。 1.吉備真備 2.真備町に行ったことと遣唐使好きから 3.遣唐留学生→右大臣 4.万能が過ぎる。遣唐使の中の遣唐使。 5.阿倍仲麻呂と藤原仲麻呂 6.人物叢書『吉備真備』、『遣唐船』他 7.計り知れない、稀有の人。 https://t.co/O6TioGKbzS
大体この辺り、ぐらいのイメージの真備過去絵置いておく。 さっきの記事、遣唐使メンバーズで言えば平群広成もいますね。
しかし真備を知れば知るほど泉には同情するようになったものです。「学者の家だから優秀」という評は得ていたのですが、最終的に絶対おとうさんと比べられるよね。 あと余談ながら泉の名はどこからつけたのだろう。これより前に泉内親王がいるから特段あり得ない名前ではないけど気になるよね。