先日「粟田殿」で話題にした粟田真人、この年の正月二十三日に遣唐執節使に任命、翌年六月に出航します。大宝律令の編纂にも関わり、この久々の遣唐使の最高責任者となってる辺り藤原不比等からの信頼がかなり厚かったと思われます。

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刷雄はまずこのメンバーの遣唐使について行かされてる辺りで千尋の谷に落とすも同様ではないですかお父さん…
(清河はイメージ)

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小学生にも笑ってほしくて、こんなあざといコマも考えてますが、似てない絵ならパロディで許してもらえるよね。
遣唐使となって大冒険をする『宇保津物語』俊蔭の巻

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上元二年四月五日
もはや楊貴妃の旦那としてのほうが有名かもしれない唐の玄宗皇帝の忌日ですって。
日本でもこの人の代で三度の遣唐使が入唐してるのもすごいし外国人スキーなので恩恵もすんごいんですけど、晩年はそこを差し引いてどマイナスになっちゃうレベルの人。

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私が「何がスゴいって…」って思ったのは、トン子()さんも遣唐使(
)さんもさつま島美人マン(
)も、みんなお互いを応援し合って健闘を称え合って、投稿をシェアしてたことなんですよね
こういう人達だからみんなに愛されるんだろうな~✧*˖°+(続く)

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そんな天平勝宝度の遣唐使、大使の藤原清河が阿倍仲麻呂と共に帰国の途次遭難して唐に舞い戻っていることが伝わり、それを迎える為の迎入唐大使使が任命されました。色々あって結局任務果たせない。かわいそうな清河…

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我らが大伴古麻呂といえばこの遣唐使としての唐の朝賀席次争いと鑑真和上来日の貢献だと思うのですが、これだけでも古麻呂の人となりが感じられて良いです。新羅と緊張関係になりつつあった時期なので日本としてもGJ案件だったと思うけど、外交的には色々アウトではある。

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遣唐使の中でもかなり重要な大宝度の遣唐使、そして遣唐執節使粟田真人が爆誕。執節使は大使より上でこの時だけのもの!つまり歴史上遣唐執節使は粟田真人だけ!!大宰府赴任経験もあり大宝律令選定にも参加、適任だと思います。(不比等がGJ)

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天平勝宝度の遣唐使、第二船の副使大伴古麻呂が鑑真和上を連れて帰国。前年十二月二十日に薩摩国阿多郡秋妻屋浦に漂着してました。
一・二・三船は蘇州より出帆して同時に一度沖縄に漂着してました。そこから運命が別れてしまいましたね。(清河方向チラッチラッ)

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霊亀度の遣唐使(出発~帰国は養老年間)が前年に帰国し、年が明けてから唐の朝服スタイルで天皇に拝謁。
この後二月に服制が大きく改められ、襟が右前となり把笏がスタートします。なので公にこの奈良時代的スタイルはこの年からですね。

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この引用先ポストの別の引用に「万葉集の頃はまだ日本文化が確立する前だから本当の日本文化らしさは遣唐使が廃止され大陸からの影響が減って国風文化が確立した後の古今和歌集の時代から」とう内容にこのかお
なんなんだ「確立した日本文化らしさ」って…

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袁晋卿、天平七年に遣唐使と共に来日しその後帰化しここで清村宿禰を賜姓されました。十八かそこらでなんで日本に来ようと思ったのかめちゃくちゃ気になってます。ここでの賜姓は玄蕃頭として唐使を迎えるのに日本人として対応させるためではという話を本で読みました。

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いい遣隋使・遣唐使のお兄さんたち✨です。

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天平勝宝二年九月に大使藤原清河&副使大伴古麻呂で発足した遣唐使、一年以上経って吉備真備が副使に任命されましたが、副使二名体制は異例のことです。真備が従四位上で清河が従四位下、古麻呂が従五位上なのでこの時点で真備が一番上位という…。
(出発前に清河&古麻呂が昇叙されます)

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積極的に天長節をお祝いする光仁天皇の誕生日です。
天長節は唐の玄宗が天宝七年(748)から始めたようなので天平勝宝の遣唐使辺りによって伝えられたものかと思われます。
次の桓武の代では既に言及がなくなってしまって残念…。

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結果として帰れなくなったせいで行くぜやるぜ感がまるで感じられない藤原清河が遣唐大使となりました。遣唐副使はわれらが大伴古麻呂。この時点で不安があったのか後にもう一人の副使が追加されます。古麻呂には前々回の遣唐使で留学生だった説もあるけど説自体の根拠は微妙なところです。魅力だが。

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天平勝宝二年九月廿四日
任遣唐使。以從四位下藤原朝臣濂河爲大使。從五位下大伴宿祢古麻呂爲副使。判官主典各四人。

遣唐使を任命した。従四位下の藤原清河を大使に任じ、従五位下の大伴古麻呂を副使に任じた。判官・主典はそれぞれ四人を任じた。

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遣唐使、日本は(国内向けの治世のためにも)対等の立場としたりしてたけど中国は上下関係をとっていたよ。
それに、海を渡ること自体大変だったよ、
というコラムの絵。

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天平の遣唐使は歴代の中でも帰途が屈指の波乱の展開で、順当に帰国したのは第一船のみ。どうやらこの第一船に吉備真備や玄昉が同船していたようなので真備持ってるなあ。紆余曲折あっても第二船(出発から三年後)と第三船(出発から六年後)はなんとか帰国できましたが第四船は消息不明。

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天平度の遣唐使の発足です。
任命記事には出てない人も含めおおよそメンバーは以下の通り。
遣唐大使:多治比広成
副使:中臣名代
判官:平群広成・田口養年富・紀馬主・秦朝元
総勢594人

第一船・多治比広成
第二船・中臣名代
第三船・平群広成
第四船・田口養年富

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