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『哀しみのベラドンナ』(25)
この聖霊のイメージに基づいて、ジャンヌが(言わば「教会」となった)女達の中で復活し、それが生活を変容させ、革命運動へと発展していった、と解釈することも一先ず可能ではある。しかし劇中では、違った形の集合的身体も提示されていたことを忘れてはいけない。
『哀しみのベラドンナ』(24)
他方で、十字架に縛り付けられたジャンヌの姿はキリストを思わせるが、煙となって女達の中に流れ込む彼女は聖霊を想起させる(使徒行伝2:3「また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった」)。
『哀しみのベラドンナ』(21)
それ故ジャンヌは敢えて火刑にされることを選んだのだ。それは熟した木の実が弾けて、種を撒き散らすようなものである。火焙りにされた彼女は輪郭線を解くと、線となって女達の顔の線へと流れ込んでいく。なぜ女達なのか?
『哀しみのベラドンナ』(18)
そのことは変容したジャンヌが、色鮮やかな線によって描かれている事からも分かる。ここでは最早、線と色面の区別は撤廃されている。更にこの場面の後、悪魔は(宴に参加していたとは言え)二度と言葉を発することがないという事からも、両者の一体化は明らかである。
『哀しみのベラドンナ』(17)
荒野で悪魔と交わったジャンヌは凄まじい幻覚を見るが、そこから我に返った後、自分が美しく変容していることに気が付く。この時点で彼女と悪魔は一体化しているーもしくは彼女は自分の中に眠る力を完全に認識するに至っている。
『哀しみのベラドンナ』(13)
その結果、登場人物の身体は文字通り糸(もしくは帯、アラベスク)状になって絡まり合うこととなる。こうした個別的身体の解体と再結合は、ジャンヌが民衆を前に荒野で宴を開く場面と、ジャンヌとジャンが荒野で再会する場面で起こる。
『哀しみのベラドンナ』(12)
これは冒頭に現れる大聖堂のステンドグラスも同じである。刺繍もステンドグラスも、輪郭線で囲まれた静的身体(ひいては静態的社会)を理想化したものだが、ジャンヌの力(繊維状の悪魔)はそれらを撹乱する。悪魔はあらゆる境界線を解き、あらゆる形態を変形させる。
『哀しみのベラドンナ』(7)
シーレ風の様式は特に目に付くものだが、この映画ではそれ以外にも多くの絵画イメージが引用されている。例えば、悪魔のサバトの場面ではブリューゲルやボスのイメージが参照され、最終カットではドラクロアの『民衆を導く自由の女神』がクロースアップされる。