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【百年ニュース】1920(大正9)6月23日(水)広東省より記者団21名が大阪に到着。団長は広東省選出衆議院議員でもある唐宝鍔(清朝第一期日本派遣留学生)。2組に分かれ甲組は政治視察,乙組は実業視察。他に江仲雅(広東省の豪商子息)、馮自由(参議院議員)らが団員。民間メディアと言うより公的視察の趣。
「ルーマニヤ皇太子カール殿下東京駅までお出迎えあり,余も大礼服にて扈従せり(原敬日記6/23)」「宮中においてカール殿下のために晩餐会並びに舞楽を催され余も陪席仰せ付けられたり.皇后陛下,皇太子殿下御臨席御待遇ありたり(6/24)」「午後カール殿下引見式あり,霞が関離宮(旅館)に参入したり(6/25)」
伍廷芳は突然の来日。来日の真意は日本政府も計りかねた。秘書の傅秉常と従者の黄元田と三人組。伍は軍政府会計責任者であり在日中国人社会からの資金調達であった可能性が高い(楊壽澎からの情報)。滞在先の横浜山手フェアモントホテル、箱根富士屋ホテルには在日中国人留学生等から脅迫状が届く。
のちに原節子を見出したドイツ人映画監督アーノルド・ファンク(Arnold Fanck)はこの年31歳、ドキュメンタリー映画『WUNDER DES SCHNEESCHUHS (Wonder of Skiing)』でデビュー。山岳映画のパイオニアとして知名度を上げることになる。また同年に学生仲間ナタリーと最初の結婚。https://t.co/1YY8qfMlhr
【百年ニュース】1920(大正9)6月3日(木)早朝多門二郎大佐の救援部隊がニコライエフスク到着。全市が火焔に包まれ、トリピャーチンはじめパルチザンはすでに逃走後。墓地に避難していた市民約70名を発見。ロシア人のほか中国人4,米国人1。上流マゴ村で中国人妻妾となった日本人女性14名生存の報。
【百年ニュース】1920(大正9)6月2日(水)上海の孫文に大阪朝日新聞記者神田正雄がインタビュー。当時の中国は南北に分裂中。南方政府(広東軍政府)は1918(大正7)5月に軍政府組織大綱を修正。孫文は大元帥を辞して一総裁となり、独裁制から総裁7人の合議制に改めた。改組直後に孫文は上海に居を移す。
【百年ニュース】1920(大正9)4月27日(火)音楽家で東宮職御用掛の幸田延(49)が、流行性感冒(スペイン風邪)で昏睡状態に陥り重態と伝えられる。実兄で作家の幸田露伴も駆け付けるが、その後回復。スペイン風邪は1918年10月~19年3月の第1波に続き、1919年12月より第2波大流行が日本を襲っていた。
東久邇宮稔彦王は久邇宮朝彦親王の末子(第九王子)として1887(明治20)誕生。1915(大正4)明治天皇第九皇女の泰宮聡子内親王と結婚。渡仏にあたり聡子夫人,盛厚王,師正王は日本に残る。稔彦王付武官となった溝口直亮大佐は旧新発田藩主溝口直正長男で伯爵(陸士10期)。6月1日に無事にパリに到着した。
【百年ニュース】1920(大正9)3月24日(水) 東京帝国大学でカリフォルニア大学元総長ベンジャミン・ウィーラー(Benjamin Ide Wheeler)が講演。帝大総長山川健次郎のほか、渋沢栄一、姉崎正治、内田定槌等聴衆多数。加州日本移民への批判的な内容に驚き。→11月2日 加州議会で排日土地法案可決
1920(大正9)3月20日(土) 黎元洪の子息黎紹基(20歳)、張之洞の子息張仁楽(22歳)、日本留学のため東京着。築地精養軒に投宿。3月25日に学習院高等科一年級入学試験を受験。4月8日に入学した。両名の留学は黎元洪の希望。「黎元洪長子及故張之洞五子本邦留学方ニ関スル件」(外務省外交史料館)