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オヤスミ。
今年もこの時期になったので釘を指す皇子
玄昉といえば聖武天皇生母の藤原宮子を看病して母子の対面を果たしたというこの件が有名ですね。 中宮亮である真備も昇進してますが玄昉との関係なのかなんらかこの件に関わってるようです。帰国してから三年足らずで従八位下から従五位上はすごいですね。
大伯(大来)内親王の忌日です。 大伯といえば大津、大津といえば大伯。というぐらいに姉弟がセットなイメージですね。(そして二上山も) 大伯のこのイメージはほぼ万葉集での形成になるわけですが。
上皇陛下のお誕生日ということは第四十九代光仁天皇の忌日です。 長い記事なので後半の喪葬儀礼に関わる人事の訳は割愛。光仁朝は続日本紀の中ではこういった儀式などに関する記事が詳しいですね。
カ、カエルも… https://t.co/1KnCSx4uYj
仲麻呂というか朝衡、あそこまで(多分)無事に出世してるので派閥というかそういうものには属してなかったのかなと思ってましたが、ある程度そういうのもあるよねえというのは納得かもしれない。仏教方面はあまり意識してなかったので新しい知見でした。
懐風藻の伝によれば、葛野王は高市薨後の皇太子擁立に関する群臣会議で兄弟ではなく直系の皇位継承を主張、さらに何か言おうとした弓削皇子を叱責という妄想し甲斐のある記述があるのでここはいつか描きたいですね…!! そしてまじでよくこの系譜を繋いでくれたと思います。
葛野王は大友皇子の子で推し系譜の一人です!! 正史にはこの本人の卒伝と孫の淡海三船の卒伝に系譜の説明で出てくるだけなのですが、『懐風藻』にある伝が貴重な情報源です。そもそも懐風藻なかったら十市皇女が母親だってこともたぶん断定はできなかったので…
まずは何度も言ってるけど十八、九歳で絶域ジャパンに(多分戻る気はあまりなく)、やってくる気になった理由が知りたいよ。日本人よりは中国の方長距離移動の耐性ありそうですが…。 日本側はきっとネイティブ歓迎してると思うけど。