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個人的スマホカメラ騒ぎでバタバタしてたら世の中(というよりほぼXという名のTwitter界隈)ちょっとした騒ぎに。イーロン氏はこの先どのようなことを成し得ようともTwitterへの関与でマイナス100だぞ。
特定記事がないけど早良親王の忌日は諸説ある中で十月十七日が有力なので過去絵上げておきます。
いくつかの史料などからの推察になりますが、
『西宮記』『江家次第』→十月七日
醍醐寺本『諸寺縁起集』所収「両処記文」→十月十七日
『新撰年中行事』『大鏡』『大安寺年中行事次第法式』
で多分後者
予告通り藤原鎌足が薨去。
被葬者鎌足かもーという阿武山古墳のご遺体を思い起こしますが、この絵は大化三年の七色十三階冠(及び冠位十九階)に見られる「蝉に似る」の冠で、阿武山古墳の大織冠とされる冠の復元も参考に書いたもの。
内大臣の中臣鎌足が重症に。
この時はまだ意識があったようだけど、大海人が藤原氏と大織冠を授けに来た時にはもう危篤状態で意識なかったんじゃなかろうか。
ちなみにこの辺の流れは藤氏家伝にも記述があるけど書紀の三割増ぐらいに描写がくどい。
筑紫で起こった広嗣の乱では朝廷帰属の隼人が活躍してますね。
広嗣はもう少し粘ります。
再度玄昉と真備を取り除いてくれたら、という旨の話をしてますが、実際ここの二人を朝廷側で遠ざけたりしたとしたらどうなってたんだろう。
(実際にこの乱の数年後からその方向になっていくけど)