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夢を見ることは権利というのはわかる。夢から醒めることが敗北だと思い込む気持ちもまあわかる。だが、夢を見ることは義務というか、幸福の絶対条件であり、夢を見ることもできない人間は何らかの欠陥を抱えていて差別されて当然という価値観は完全に理解の外だ。
理解の深度や斬新さではなく、ただ簡単にわかりやすく説明できるというだけで、知識人の座を乗っ取るまねを、私は軽蔑する。
よぞらのおくの、ぎんがのたなのいちばんうえにとびのって、すやすやねているネコチャン、あなたのなかには、ちきゅうからおほしさまのとなりへのぼっていったヒトがみんなぎっしりねしずまっている。ありがとうね、ネコチャン。たのしいゆめをみてね。
やがてはみんな、ネコのおもいで。おほしさまになったヒトは、みんなウチュウのどこかへとんでいって、おおきなウチュウネコになります。そしてえいえんにゆめをみることになるのです。かなしいことはみんなわすれて、たのしいことだけおもいだすのです。なんども、なんども、いつまでも。
#140字小説
理不尽に耐えて、今平気なフリをしていても、三十歳くらいになると心はボロボロになっている。ボロボロになる前に両手を顔の前へ……これファイティングポーズね? 戦わねばならない。
幸せ。言葉としての幸せを、私は憎んでいる。それは暴力でもある。
「幸せ」の持つ暴力性として、
1、規範性(多様性の否定)
2、強迫性(それを追求することの強制)
3、疎外性(幸福から外れると苦痛が激しい)
があるわけだ。安易に「幸せ」という言葉を使う人間は、この暴力に加担している。
バスの中で男が奇声を上げた。どうやら知能の程度に著しさがあるらしい。隣に座ってた女子高生が電話がかかってきたフリをしてすぐに降りてしまった。私はバスの中でゆさゆさ体を揺らして騒ぐ男に気を向けつつ、女子高生がスマホをすぐにしまってしまうのを見ていた。嫌なものを見た。
まだ全然準備ができてないのに、さあ舞台に立て、と迫られることは拒むのに、生まれることは拒めない。大事な発表の最中に突然止められたら怒るのに、死ぬことには怒らない。諦めてるだけだよそれは。本当は拒めるもんなら拒みたいし、怒れるもんなら怒りたい。