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『阿弥陀二十五菩薩来迎図』は、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』(2013)でも引用されていたけれど、高畑勲監督と死生観について話していたと思われる宮崎駿監督にも、そのイメージが無意識的に入ったか、もしくは高畑勲監督の中に、宮崎駿監督の『ポニョ』のイメージが入ってしまったのかもしれない。
映画『崖の上のポニョ』にて、車のお迎えを待っていたトキさんに本当の「お迎え」が来て、死神ブリュンヒルデことポニョが顔にかかって生命を落としてしまった瞬間、ポニョの妹たち(ワルキューレ)がトキさんを包んで連れて行くシーンが、阿弥陀二十五菩薩来迎図の引用になっていることに気がづいた。
(石5)だからこそ、トリムルティはブラフマー(創造)、ヴィシュヌ(維持)、そして遅れてやって来たシヴァ(破壊)の3神となり、最高神として破壊から創造を生み出すシヴァ神が3つの顔を持つ、という表象が生まれたのではないか?
「インドのフリーダ・カーロ」と呼ばれるハンガリー出身のインドの画家アムリタ・シェール=ギル(1913 – 1941)の絵画が素晴らしい。28歳という若さで亡くなった彼女の生き様にも、惹かれるものがある。
マルレーネ・デュマスが、阿部定事件で有名な大島渚監督の映画「愛のコリーダ」をテーマにして描いた絵画作品「ヒエラルキー」。この後、彼女が愛した男性は命を落としてしまうのだけれど、何だか、ただならぬ危機迫るものを感じる。
全然違うと言われてしまうかもしれないけれど、初期の香月泰男の描こうとしていた少しシュルレアルな世界の絵画表現が、秋野不矩のそれと似ている気がした。
全ての「結び」はトポロジーではないか?そして造化三神とはインド・ヨーロッパ的な三機能構造の痕跡で、そこに登場する高御産巣日(たかみむすび)と神産巣日(かみむすび)という二つの「結び」は、日本列島の背景にある大陸文明(男性原理)と海洋文明(女性原理)の二つの糸のことではないか?
古事記では、天照が父イザナギの左目から生まれる際、父の妻であるイザナミは既に死んでいることから、天照の母をイザナミとするかどうか議論があるけれど、これは直接的に性行を描かないことで最高神を聖化する処女懐胎を描いたもの、言わば日本版の「無原罪のお宿り」のように思えて来た。
1903年に南方熊楠が描いた「南方曼荼羅」と、1921年に早田文蔵が描いた「インドラの網」に基づく「高次元ネットワーク図」はとても良く似ているけれど、これは華厳経の「相即相入」、すなわち「一切が対立せずに融け合い(相即)、影響し合って(相入)いる関係」を視覚化したものだろう。
手塚治虫の『MW』(ムウ)(1976)では、三島由紀夫をモデルとした結城美知夫が、冒頭で幸雄という少年を殺し、楯の会の古賀をモデルとしたと思われる、結城と肉体関係を結ぶ神父の賀来が、その夢を見て魘される。するとこのMWの表紙イメージは、細江英公の『薔薇刑』からの引用だと分かる。