大和大納言(豊臣秀長)さんのプロフィール画像

大和大納言(豊臣秀長)さんのイラストまとめ


出自は太閤殿下と同じく尾張の百姓。 紀伊や大和で興福寺等相手に検地を実施。 拙者が長命なら豊臣も延命したとされる。 諸先生の著作で生前のことも思い出しながら豊臣中心に我ら武家に関する初歩的なことを拙者の整理のために呟くつもりじゃ

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漢城陥落で殿下は三国国割構想、自ら渡海すると言い出した他に
前年に来服を求めた呂宋にカスチリヤ王が来日しなければ「攻伐」されている朝鮮と同じ轍を踏むと脅迫する使者を送る
このカスチリヤ王とはフェリペ二世である
ただスペインは4年前にイギリスに無敵艦隊を撃破されてはいる

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毛利は四国攻めと同じ天正13年の1月に伊予と土佐進上の約束を2月に受入れ中国国分は確定し
3月雑賀、6月伊予方面から四国に参陣するが
殿下は長宗我部に土佐と伊予領有を許す方針を公表
対し毛利 (小早川隆景)の伊予を給付されねば「外聞迷惑」との訴えに殿下は前言を撤回した

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天正壬午の乱終結2か月後の二月四日に殿下に上杉景勝殿からの誓紙が届き信雄様は同盟を結び勝家包囲網を形成する
殿下は景勝殿が家康殿への言い分を仲介し
北条に敵対心あれば通信はしない
代わりに殿下は景勝殿に越中出兵を求めた
景勝殿が望んだのは実力者である殿下の血判であった

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永禄七年(1564)2月7日(6日とも)
竹中半兵衛が妻の父安藤守就と稲葉山城を占領し斎藤龍興と側近を追放

快川紹喜の発給文書にも残されている

龍興に城の脆弱さを伝えるためで信長公の美濃半国を与える誘いを断ったとも伝わる

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家督を譲った義久は島津を危機に陥らせた忠恒の短慮に当主の器でないと一旦実権を取り返したとされ
石田伊集院ラインで伸ばした忠恒の実父義弘の勢力も後退する
義弘が伏見入城を鳥居元忠が拒み西軍に加わった話は有名だが
西軍が勝利すれば義弘が義久に再び取って代わったろうとの指摘もある

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慶長四年(1599)三月七日伊集院忠棟殺害
島津忠恒も朝鮮在陣七将と同じく補給不足の伊集院への恨みが
三成と組む八万石豊臣直臣として検地を進め家中での勢力拡大で増幅し暴発したという
忠恒を蟄居にした三成自体失脚するが
蟄居を解くと忠棟の遺児忠真は不満を抱き都城を拠点に庄内の乱を起こす https://t.co/EOa68It6Dv

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太閤は琉球を服属国とみなし朝鮮派兵では島津与力と軍編成をしたが琉球の兵糧のみの提供は島津の面目を潰す
日明国交回復は進展せず家久は家康に琉球を日明交易の出会拠点と進言
財政難も打開したい家久は豊臣に倣い武威を用い尚寧王を薩摩に連行
武威発露路線に転換した家康に賞賛され琉球を拝領する

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慶長十四年(1609)三月四日琉球侵攻
義弘が西軍参加にした島津も西軍に付いた宗義智も赦免され
豊臣政権における朝鮮や琉球との仲介役を期待された
宗氏は日朝国交再開を奏功させ島津にとって重荷となる
なお太閤の九州や小田原出陣日三月一日は琉球出航予定だったが天候により四日に延期されたという https://t.co/63dTWixi5k

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九州取次となる毛利の大友との和睦を不服とし豊臣臣従を唱える一方で九州北部の親島津方国衆を繋ぐための戦いを続け戸次川で豊臣の面目を潰す
信長公の関東御一統も徳川が織田宿老羽柴や臣従豊臣後もその任に当たり北条は臣従するが
北条氏政か氏直の上洛日が齟齬し太閤の怒りは名胡桃事件で爆発する

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