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強勢を誇る九条道家と皇子摂家将軍経頼に対抗する執権泰時が後嵯峨を即位させ
時頼は将軍派三浦を滅ぼし後嵯峨も道家一族駆逐
摂家将軍頼嗣を廃し後嵯峨院皇子宗尊親王の将軍就任を果たす
宗尊親王は息女を亀山や宇多の後宮とするが皇子惟康親王に代わり将軍位は後深草院皇子久明親王の持明院系となる
文永九年(1272)二月十七日後嵯峨院崩御
二人の皇子のうち亀山帝を愛し後深草帝に譲位させた院だが
承久の乱に始まる幕府の意向配慮を優先したのか後継を指名せず
亀山帝の皇子後宇多帝即位に嘆く後深草院に得宗時宗は院の皇子伏見帝を皇太子とし即位する
交互に帝を出す両統迭立、天皇家の分裂である
慶長四年(1599)正月九日泗川撤退戦に恩賞
五大老は次期当主と認める島津義弘の子忠恒への加増と近衛少将任官は文禄慶長の役唯一の恩賞
一揆的性格の強い島津家中に石田三成直臣が直接実行した検地への反発は
後に梅北一揆が起きる程だが
家中軍役拒否に伴う「日本一之遅陣」も義弘の軍功でお釣が出た
1600年12月31日英東インド会社設立
アルマダで勝利した英国は旧教国の布教と一体の侵略性を強調
徳川を旧教国排除に方向付け布教や征服より貿易を優先する
だがインドネシアに進出する同じ新教国オランダにアンボイナ商館員を殺害された同年平戸商館も閉鎖しインド攻略に向かう
#葵徳川三代
後陽成帝の聚楽第行幸における帝に対する起請文に
大納言源家康と署名した家康はその後豊臣姓と羽柴苗字となる
ただ官位が高く小田原陣立てには
武蔵大納言江戸大納言と記される
毛利輝元は羽柴安芸宰相、島津義弘は羽柴薩摩守
豊臣大老家康は苗字と姓を変え羽柴と距離を置き関白職にも手を加えた
慶長五(1600)年十月十二日九鬼嘉隆自害
関ヶ原の戦いでは子・守隆と別れて西軍に属した
織田に仕え第二次木津川口の戦いでは船に鉄板を貼った鉄甲船を建造した九鬼水軍は村上を主力とする毛利水軍600隻を撃破
豊臣臣従後は水軍で小田原を海上封鎖し朝鮮にも出陣した
鳥羽湾突出部分に鳥羽城を築城した
1597年10月9日(慶長2年8月28日)足利義昭死去
京を追われ毛利の下で将軍として織田を撹乱
賤ヶ岳後の毛利は雑賀、四国、九州で豊臣軍の一翼を担い
義昭も秀長の意を受け島津に降伏勧告
その功で帰京し将軍職返上するも准三后の位を受け
同年に初上洛した輝元と宇喜多邸の宴で
関白の脇で上壇に座し再会
ヴァンダイクが描いたとする大友宗麟(右)
太閤殿下は醜悪、淫蕩、悪徳と評された
自力救済を禁ずる戦国大名は寺社の治外法権を制約し信長公も安土宗論で法華宗の他宗攻撃を罰した
大友は攻めた日向の寺社も破壊し有馬は信仰強制をした
殿下のキリスト教を神国に沿わぬ邪教との表現は徳川に踏襲された https://t.co/HfdhOCQkFd
#麒麟がくる
土岐源氏と宣言する高政だが
地方では幕府権威は高く管領に次ぐ相伴衆となり
四職の名門一色改姓も許される
国衆をまとめ、将軍から格上げされた高政は信長公にとって極めて手強い..
他に相伴衆は朝倉孝景、北条氏康、尼子晴久、毛利元就、毛利隆元、毛利輝元、今川氏真、大友義鎮など