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宣祖二十六年二月五日と二月十九日の記事でこのような記述を見つけることはできた。どうやら李如松の到着以前に査大受らの明軍先鋒三千が日本軍と激戦を展開していたことは確からしい。朝鮮側の記録によると査大受らが「賊の騎勢大なるを見、碧蹄に退屯す」という結果だったようである。
実際に石見七尾城と新高山城では道が見当たらなかったので畝状竪堀は見ていないし、鶴賀城の穀倉跡は倒木で道が通れそうになかったので断念する等していますが、後悔はしていません。あと最近は熊が異常に多いので九州以外の山には登らないようにしています
江戸時代の兵法書には中国の兵法書から丸写ししたような攻城兵器がよく載っているけど、慶長の役では明軍が実際に「雲梯」「飛楼」「砲車」等の攻城兵器を順天倭城攻めに投入しているんですよね。しかしこれらの兵器は外郭線の柵で立ち往生して激しい銃撃を受け、逆襲に出た日本軍に焼き払われています
長政ちゃん。これとか細川忠興の具足の胴からは現代のタクティカル装備みたいなかっこよさを感じます。こういう絵を描くときって女の子に着せたい!と思った甲冑がまずあってそこからキャラデザを逆算することが多いですね
CoD:MWIII、再びウージーを使えるようになったばかりかマイクロウージーまであるんですね。2024年になろうかというときに最新のFPSでウージーを使える喜び
①山腹から山麓部を見下ろす。矢印が山麓遺構の残る尾根。その左、緑色の建物があるあたりが屋敷地と推定されている。もしそうであれば、山麓遺構は屋敷地を守る防御線だったのだろう。②ここからは山城部分。縄張図は現地案内板より。③山城部分、伝二の丸東側の堀切。④伝二の丸。