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星野文昭が絵を描き始めたのは、1987年に無期懲役が確定し、徳島刑務所に移管されてから。
当初は、手紙に絵のカットを描くことさえ、暗号になるからだめだと言われた。
申し入れの末、1カ月に1時間、絵画クラブで描けるようになった。
独房で絵の具を持つことは、ようやく2000年になって許可された
星野文昭は、米軍基地をそのままにした日本復帰に反対した沖縄の人たちと連帯して闘った
半世紀近くたつが、いまだに米軍基地はそのまま、今、辺野古に新基地建設さえ強行されている
沖縄の闘いは連綿と続き、星野の闘いは監獄の中で続いた。連帯をこめて、多くの沖縄の絵を描いた
セレクト6点
⑤『アフガン、山の学校で学ぶ』
【絶筆 2019年5月15日】
アフガン、山の学校で学ぶ
「勝気な少女の表情が
暁子と重なるんだ」
最後になった文昭の絵は
少女がきいっと前を見据えている
これからの私の人生を
暗示しているのだろうか
「体に力が入らないから
バック等は簡単にしたけど
(続く)
②『アフガン、市場で働く少年』(2017年)
アフガン、市場で働く少年
市場で働くのが 僕は好きだ
帰ってこない父さん
病に伏している母さん
いつも腹をすかせている
7人の妹と弟
みんなのために働くのが
僕は好きだ
本当は学校に行って
勉強がしたいけど
物乞いをするよりは
市場で働くのがいいんだ
若い人たちに、ほんの50年前、この日本で世代丸ごとと言っていい多くの若者たちが、より良き社会をめざす行動に立ち上がったことを知って欲しい
星野文昭と同世代の人たちに、無実を叫ぶ監獄で、あの時代の理想と志を44年間守り抜いた人間がいたことを知って欲しい
そんな星野文昭の絵を見て欲しい
「絵の世界で暁子新たな生命を」(2018年)
文昭さんは暁子さんのために子どもを欲しがった。
2002年、「獄中者とその家族が子どもを生み育てる権利を求める会」を結成。性愛を伴う夫婦面会を、認めないなら精子の宅下げを認めるように、徳島刑務所に要望したが、かなわず
以下に暁子さんの詩
(続く)
➁母と子、チェルノブイリの願い
・福島の願い(2014年)
獄中結婚した星野文昭と暁子に子どもは
いなかったが、文昭は、妻暁子が母となって
抱く子どもとの絵を好んで描いた。
自分たち夫婦の子どもであり、また、
世界がはぐくむ子どもたち