//=time() ?>
宇宙人や超能力といった発想は、直接に身体の延長線上で出てくるものではない。だとすると、太郎千恵蔵の絵や彫刻に、あるいはもしかして、同じ時期の川久保怜の服飾デザインに見られる異質な「こぶ」は、どこから現れたのか?
なにしろ岡崎さんを相手に議論をふっかけているわけですから、それなりに高度なこと言わねばなりません。『絵画における真理』のデリダによれば、衣服や柱はパレルゴンである。それがなければ作品の内部の欠如が現出してしまうだろうからである。(上巻p97)
福田美蘭の描いたゼレンスキーを実見して気付いたのは、その瞳に反射した光の粒のいくつかが四角いブロックを成していたことである。これは見てのとおり複製写真を拡大してもボケてしまい分からなかったことだ。
フィッシュルがマルチパネルの絵画に犬を登場させているのは、マネが絵から取り去ってしまったものを取り戻すためである。これらの作品では、フーコーがマネの絵画に見たキャンバスの物質的諸特性、その限界があらためて問われている。
この21世紀に、こうした創世記を描いた昔の絵画が、ふとAI画像生成に見えたとしても、気のせいではない。『不過視なものの世界』の会長の言い方を借りれば、そこではすでに〝内在的な計測可能性への絶対的な信頼が、かえって、通常の想像力の及ばない怪物的な映像を呼び寄せている〟ように見える。
「日付は亡霊である」とデリダは言います。そこで考えるべきは重力との関係です。というのも小沢さなえの描くチャーちゃんの世界は、映画『ムーンフォール』よろしく、重力を失っているかのように見えるからです。
https://t.co/PJsdHqSucl
脱構築は「かも知れない」の位相を挿入する。私たちはポストモダンを、命題の訂正可能性から捉えなおしている。エクリチュールに宿る単独性の考察がなければ、現実に歴史はひとつしかなかったのだから、可能世界論は空虚な思考実験に終わる。(郵便的)
タチカワミドリのセツモード・スタイル、その尖筆とエクリチュール。
スタイル=様式は言うまでもなく芸術、文学にとって根本的な概念である。語源の“stylus”は切っ先を意味する。それは、刻印し、彫るも のとして、エクリチュールとデッサンに共通している。
https://t.co/91yROPm4Rw