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やがてシュトライヒャーは教員として勤務を開始したが、後々までずっと続く、トラブルを起こす性格はこの当時から出ていた。やがて政治運動に携わり、反ユダヤ主義的な演説をするようにもなった。(JULIUS STREICHER p3-4参照)
ゲッベルス日記「はじまりかけている選挙戦を総統と徹底的に検討する。国家のあらゆる手段を利用できるから、こんどの戦いはらくだ。ラジオと新聞が思いのままだ。扇動の傑作をつくるんだ。もちろん今度は金にも不自由しない」(1933.2.3)
シュトライヒャーの最初のエネルギーは、ニュルンベルク周辺の町々の支持者向けに注がれた。新組織が結成されると、何百もの人間が加入した。シュトライヒャーの論調は、より激烈になっていった。(JURIUS STREICHER p12)
シュトライヒャーは、しぶしぶDSPに残留した。1921年3月の第3回DSP全国会議における報告によれば、彼の地方支部の人数は800名を超えていたという。(JURIUS STREICHER p11)
ゲッべルス日記「重い気持でリッペへたつ。ミンデンまでは汽車だが、そこからは雨と泥のなかを選挙区へはいる。最初の夜に三回演説する。ひどく小さな農村でもやった。集会はどれも超満員」(1933.1.9)
ニュルンベルクでは、シュトライヒャーは教職のかたわら自党を宣伝する十分な時間を見つけることが出来た。そのため、彼の地区ではすぐに300名以上の同志を獲得でき、隣町には支部が結成された。(JURIUS STREICHER p9)
1919年に彼に起こったことは必ずしもはっきりしていないが、この年までに、シュトライヒャーは過激な反ユダヤ主義者になったという。(JURIUS STREICHER p8)
1913年、シュトライヒャーは評判の良いパン屋の娘、クニグンデ・ロートと結婚。彼女はしっかり者で忍耐強く、夫の事には干渉しないドイツの理想的な「主婦」だった。(JURIUS STREICHER p5)
「あらゆる革新系の集まりに、暴力をふるいだした右翼」(「1960年10月12日】 浅沼委員長、演説中に右翼少年が刺殺」5:40~)。テキ屋風のいでたちが味があって良いですね。