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(脳天を直撃する父の魂)
中世キリスト教図像における岩の表現と初期ドット絵におけるそれの類似を指摘しておきたい。要するに知識と観察の欠如、様式化の徹底が類似を生むのだと思う。だが普通に岩を観察して引き写すより印象に残る岩と言えばこっちである。脳内から引っ張り出してきたような、この世ならぬ端正な岩である。
平たく言えばスネ夫には「おぼっちゃまくん」との混同が起こったのである。それは「押忍!番長」において、実は番長でもなんでもないのだが、時代的に番長的外見を持っていた最晩年の例であるジョジョの承太郎との混同が見られるのにも似ている。
須田正己であろうか。当時際立ってリアルに見えた絵である。それでも今見ると腕の筋肉の把握が甘いことに気づく。一度でも「描けている」絵を見てしまうともう以前気にならなかった部分が気になって仕方がない。そして大変意外なことに、筋肉描写を一新させたのは原哲夫より鳥山明であると思う。
どこらへんにこの絵の需要があるんだ。
なんとなくだけど本来「‥」の部分には毛が生えないままじゃないかと思うんだ。けどそんな細かい処理をするようなキャラじゃないから適当に塗っちゃったと思うんだ。もともと白目すらないのに。
んでTV見てたら海老蔵が出てきて、髪の毛が生えてるので愕然とした。てっきりハゲだと思っていた。クリリン枠だったんだな海老蔵。今オレの中で海老蔵とクリリンが同カテゴリに入った。「髪の毛あるけど剃ってた人」だ。あとはギャバン大葉健二だな。
創作のアイディアを思いつく、先行例がないか、パクリにならないかを必死に調べる。いつものことである。だがよく考えればこれが怯懦であり愚策であろう。全く前例のないものが好かれる可能性は低い。ディズニーなどは徹底して逆を行っている。企画の出発点を積極的に先例に採る。獅子の貪欲である。
「マジンガーZ」と「ザ・ムーン」を、「ドラえもん」と「丸出だめ夫」を学ばねばならない。安易な中傷ではなく獅子の貪欲のようなものを学ばねばならない。独創はしょせん作品の一要素にすぎず、躊躇なく喰らい己の肉とする者こそが獅子たる資格を得る。むしろ独創にすがろうとする矮小さを危ぶもう。