「物狂の沙汰」三条公忠(公卿)
「皇室の恥」花園天皇(持明院統・先代天皇)
「武家の世の中でも作りたいのか?」北畠親房(側近)
「色々改善しないと職を辞します」北畠顕家(鎮守府大将軍)
「帝の依怙贔屓が大乱を招いた」足利直義(南朝・武将)
 

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歴史学者の意見も様々で書籍によって評価が180度変わってくる。歴史上最も両極端な評価の天皇でしょう
因みに本作の監修を担当されている本郷和人先生は「先代まで積み重ねた官僚や続いてきた徳政を台無しにした」として批判的
では同時代の人物の批評も見てみましょう
 

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劇中での道誉評のように「凡人や無能の気持ちがわからない」から想定外の事態に対応できず、師直評のように「先進的な政策もあるが無駄が多く現実に即さない」机上の空論のような施策の多さが建武の新政の弱点でしょう
天皇のワンマンでどうにか出来る時代じゃなくなっていた
 

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例えば雑訴決断所の「土地問題を審理と強制的な命令で解決する」のは正常な行政の在り方です
実際、高師直は執事施行状という「土地問題が起きたら武力で治める」暴のシステムを組み込み機能させた
ただ、朝廷には既にシステムを機能させるだけの武力も権威もなくなっていた
 

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どの政策も共通しているのは進歩的な部分と反動的な部分が混在となっていることで、これらがどうしても噛み合わず机上の空論に終わったり、朝令暮改の政治になった要因でしょう
どれもやろうとしていることや仕組み自体は間違いではない部分があるのも複雑なポイント
 

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このような形で武士・貴族双方から疑念を持たれ始めた建武政権ですが、そんな中で大内裏を新築する為の増税や、新貨幣と紙幣の発行といった経済政策で更に不信感を強める事態に
紙幣発行は中国の政策の模倣で、中国密教マニアの帝ならではの発想でしたが大内裏新築と共に頓挫
 

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貴族ばかり贔屓したと言われてますが、実際は上記のように土地の権利の裁定が遅れに遅れた結果そう見えたとも言えます
武士に高い官位を与えたりする姿勢にしても武士冷遇の意志はない
ただ、これも北畠親子に武士に無闇矢鱈に官位を与えるな!と批判される要因になっている
 

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赤沢氏は小笠原氏の庶流であり、発祥こそ伊豆の赤沢郷ですが、宗家と共に信濃に渡っています
貞宗の母も赤沢氏出身であり、常興とは血縁も近しい間柄だったのかもしれません
なお逃げ若で弟とされる新三郎の存在は確認できませんでした。マイナーな書状とかには載ってるのかな

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逃げ若武将名鑑【赤沢常興】
中先代の乱で小笠原貞宗に付き従った武将
北条残党の鎮圧の功を持って領地を与えられ、塩崎城を立てて拠点とした
貞宗と共に小笠原流礼法の成立にも関わっていたとされ、礼法の基礎たる『修身論』と『体用論』もこの2人の共著とされる

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【お仕事】今週の週刊少年ジャンプ『逃げ上手の若君』本誌巻頭カラーのお手伝いさせて頂きました。アニメ第二期制作決定おめでとうございます🎉 

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雑訴決断所も同じような問題を抱えていて、このように有耶無耶になった土地問題を一つひとつ精査しようとした結果、問題が山積みとなりパンク状態に
土地に居座る武士に出ていけと綸旨を出しても無視されたり居直られたりする始末なので、結果綸旨自体の価値も貶めることに
 

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そもそも武士への恩賞自体が問題になっている部分もある
後醍醐帝は最初自らの手で全ての北条の土地を再分配しようとしましたが、恩賞欲しさに手柄を盛ったり嘘を吐いたりする武士が多数
例えば日置氏は早くから味方していたとして、書類の日付を書き直してる跡が見つかってる

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天下を朝廷に戻した後醍醐天皇が始めた建武の新政ですが、倒幕時に護良親王が令旨をバラ撒きすぎた反動が早速来る
後醍醐としては天皇の出す命令の綸旨を絶対としたいのに、護良が勝手に恩賞の約束をした令旨が邪魔になったのです
これが護良との軋轢の一つと言われている

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その反乱を鎮圧する為に派遣された足利高氏にも倒幕の綸旨が送られ、それに従った高氏によって六波羅探題が壊滅。鎌倉幕府滅亡へと雪崩れ込みます
一連の絵図を完璧に描いてたなら恐るべき策士ですが、正中の変のgdgdさを見るに割とたまたま条件が重なっただけな気もする

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それ以上に恐ろしいのはド級のリトライ、ドリトライの精神性でしょう
それこそ承久の乱を起こした後鳥羽院のように反乱を起こす天(上)皇はいましたが、配流先から戻ってくる程の人物は空前絶後です
正成の奮闘、護良親王の令旨ばら撒き、赤松円心の挙兵とタイミングも絶妙

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何と後醍醐天皇は配流先の隠岐から脱出
この時出迎えたのが三木一草の名和長高(年)で、海運業を営んでいた彼に因んで「帆掛船」の家紋と「名前が長くて高いのは危ないからこれで長生きしろ」と「年」の字を贈ったという
人心掌握術の高さが感じ取れる逸話です
 

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「諏訪大明神絵詞」によると藤沢が継いだことで諏訪大明神の怒りを買い様々な災いが起きた…とされますが、まあこれは諏訪大祝家が正統性を示す為のプロパガンダでしょう
実際は建武政権が立てた大祝を足利(北朝)政権が否定し、御しやすい年少の頼継を頭に据えるのが目的かと

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逃げ若武将名鑑【藤沢政頼】
中先代の乱の責任を取り自害した諏訪頼重・時継親子の次代の諏訪大社大祝(主)
藤沢氏は平安末期に諏訪家から分かれて伊那郡藤沢に居着いた一族で宗家からは遠い
小笠原貞宗によってその座を追われ、諏訪頼継が代わりに大祝を継いだという

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軍事・政治・謀略・文化……あらゆるところに名が現れ、そしてその全てで違う顔を見せるという意味で最も食えない人物でした
ただ時と場合によって婆娑羅を使い分ける処世術に長け、足利家に一途に仕えた高い審美眼は紛れもなく本物で、南北朝を代表する傑物に他なりません

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連歌では道誉の真似を皆がしたとか、茶では名物「九十九髪茄子」を見出して義満に献上したとか事実伝来含めて様々な文化にその名を残す
庶民文化の「猿楽」にも目を付け、観阿弥・世阿弥と交流を持ち、映画にもなった犬王を日本一と褒め称え「能」に大成する一助になったとか

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