作中でモデルの一人として挙げている玄蕃丞は鎌倉幕府に仕えた御家人
赤木山の新左衛門や平出の左源道といった豪族と仲が良く、よく池之坊の屋敷で酒宴を開いていた
3人は幕府の隠密と伝わり、その神出鬼没さから狐と呼ばれた
玄蕃は武士の官位なのでルーツとしては自然

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いやまあ中には村の美女に化けて道の真ん中でうんこ食べてたとかお下劣なのもあるけれど…
化け狐伝説は時代を超えて語り継がれ、江戸時代には大名行列に化け、文明開化後は汽車に轢かれて死んだ仲間の仇討ちで自身も汽車に化けて逆走など時代に合わせてアップグレードされた

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信濃の化け狐伝説はこの玄蕃之丞を中心に作られ、お夏の他にも赤木山の新左衛門、田川橋の与三郎、石灰山の沢尻のさゑんといった各地の親分狐を従え悪戯をしていたという
その悪戯は人間に化けて宴会場に入りご馳走を食べ尽くす等、人に害を加える類でない他愛ないものだった

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逃げ若妖怪名鑑【玄蕃之丞と横手ヶ崎のお夏狐】
信濃は塩尻の桔梗ヶ原一帯を縄張りとした化け狐の頭領とその相方
桔梗ヶ原には玄蕃之丞を中心とした化け狐の民話が多数残されており、現在も親しまれている
お夏狐は玄蕃と共に嫁入り行列に混ざる話に登場する

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しかし、擾乱の激戦が祟ったのか1352年の武蔵野合戦の直後に病に倒れ、そのまま遺書をしたため消息不明に
1355年には息子の長基が信濃守護になっているため、その間に死亡したものとみられます
上記書状では「諏訪を討ち果たせなかったのが心残りである」と記している

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その時、信濃守護の座も喪失しますが、尊氏の無茶苦茶に起因して尊氏派として再起
再び激化する足利兄弟の戦の中で諏訪・吉良・武田を次々と破って新体制を築いた鎌倉の尊氏の下に参陣
信濃国春近領を安堵され信濃守護に復帰、その地位を固めます

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みんな大好き貞宗殿の息子ですが、父が直前で亡くなって回避した観応の擾乱をモロに体験することになります
当初は師直寄りの尊氏派で御所巻にも参加しますが、勢いを増す直義派の諏訪勢に敗れ自邸を焼き払い降伏
打出浜の戦いでは直義方として参戦することになります

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逃げ若武将名鑑【小笠原政長】
小笠原貞宗の子でその後を継いだ信濃守護
観応の擾乱を皮切りに足利の内紛を渡り歩き、生涯諏訪との抗争に勤しんだ
しかし、擾乱後すぐに体調を崩して息子に守護職を託したのを最後に書状が途絶え亡くなったとみられる。没年不明

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夢窓疎石は尊氏のことを「誰にでも慈悲深く度量が広い」と称していますが、それは裏を返せば誰にでも良い顔をしてしまうという八方美人気質であったということ
政治を任せた直義も師直両者に良い兄・主君であろうと努めた結果、どっちつかずの征夷大将軍と化したとも言えます

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結果論から「何もしていない」と言われる側面もある
要は観応の擾乱の勃発を止められなかったことで、師直が御所巻の準備をしている時も、その後に直義が南朝に降伏するために行方をくらませても割と呑気して放置いている
政治に全く介入しないせいで反乱の火種をスルーしてる

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尊氏はゼークトの組織論で俗に言うところの「有能な怠け者」に回ったということであり、決して何もしていないわけではない
ただ『梅松論』の理論が自分のこと棚上げした言い訳にしか聞こえないのと、田楽狂いの逸話が目立つので「何もしていない」と言われてしまうだけで……

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ただ言い方こそ最低ですが考え方は正しい
尊氏は将軍に求められる役割が「恩賞を与えること」と正確に理解しており、その権限を手放さず郎党の信奉のバランスを保たせていました
尊氏がばら撒き、直義が内政を安定させ、高兄弟らが軍事を支えて足利政権は巧く回っていた

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『梅松論』には尊氏が政務を任せた直義に次のように忠告する逸話が残っています
「直義、お前は政治家なんだから重々しく振る舞え。あまり遊んだりしたら駄目だぞ?我?我は軽々と振る舞っていいんだよ。その方が皆に慕われるし……」
こ……コイツ……!
 

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名実共に武家の棟梁である将軍となり、室町幕府が正式に成立したその瞬間、尊氏は将軍としての「恩賞を与える権限」以外の全てを移譲します
この間の尊氏は下文の発給や天竜寺落慶等の儀式の参加以外では政務から完全に離れて、田楽観賞等の遊興にふけっている

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【Tips】空白の10年間
尊氏が北畠顕家を討伐したことで征夷大将軍となった1338年から、観応の擾乱の発端となる御所巻が起きる1349年前辺りまでの期間
尊氏は武家の棟梁となったことで政務を全て直義や師直に丸投げして、田楽鑑賞以外のことをしていないと言われている

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南朝に降った直義が北朝の足利政権に復帰したことで歪みも発生している
北朝視点からしたら、直義は敵である南朝に与して北朝の重臣である高一族を滅ぼした謀反人なのに北朝に復権させたわけですからね
北朝最高権力者の裁定としての矛盾。それは南北朝を更なる混沌へと導く

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とまあ、納得いかない部分が多い裁定なのは変わりなく、能憲は直義との交渉の末に死罪は免れ流罪になるなど色々譲歩されました
顕氏の件についても「(私尊氏は)降参人の癖に何しに来た(んですか、会うには恐れ多いです)」と訳すべきという解釈もある
苦しくない?

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さらに直義が今回朝敵に認定させたのは「高兄弟だけ」ということが響いてくる
尊氏が「今回直義が戦ってたのはあくまで師直たちであって我じゃないだろ?じゃあ我負けてないし、将軍だし」のロジックが(ギリギリ)成り立つ
……いや、アンタ打出浜で師直側についてただろ!?

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この辺に尊氏の卓越した政治センスというかバグ技がありまして…
尊氏は武家の棟梁である征夷大将軍になってから政務のほとんどを直義や師直に丸投げしています
それでも配下に恩賞を与える権限ってのは絶対手放しておらず、それ即ち論功行賞を仕切れる立場にあるということ

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無敵モードの尊氏は凄まじく、高一族を殺した上杉能憲に対して怒り狂って死罪を言い渡し、面会に来た細川顕氏に「降参人の癖に何しに来た」と冷たく言い放ち追い返す
言っておくが、この時の尊氏は打出浜の戦いで直義勢に敗北したばかりの状態
「どのツラ下げて?」である

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