「鬼丸」は北条得宗家のものでしたが、鎌倉滅亡時に義貞が奪ったとされるも『太平記』では諏訪家を通じて時行に渡され、中先代の乱終結後に時行の偽装死体から義貞に渡ったと書かれ差異がある
別の記録では後醍醐天皇のものになり、1336年に結城宗広に下賜されるなどバラバラ
 

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【Tips】鬼切と鬼丸
源氏重代の太刀として有名な剣であり新田義貞が両方とも所有していたとされるが伝来に諸説あり、特に「鬼丸」は結城宗広や北条時行も同時期に所有している
何なら「鬼切安綱」も「鬼切丸」略して「鬼丸」と呼ばれることもあるため、本当にややこしい
 

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この複雑怪奇な時代において新田義貞のこの単純明快な生き様はあまりに鮮烈で眩い
そして彼の野生の本能から発せられた「下剋上」「実力主義」「地方の自立」の思想は確実に次代の戦国時代へと引き継がれている
新田義貞は獅子奮迅の戦いぶりを以て歴史に名を残したのです

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ただこの「新田は足利より格下」という歴史の流れを見ると「新田義貞は誰のために戦っていたのか」という特大の「?」の回答が見えてくる
新田義貞が第三勢力となってまで抗い戦い抜き示したかったのは「新田は足利より強くて偉い」という至極単純な証明、要は「下剋上」です

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少なくとも『太平記』は新田を足利と同格のライバル(もといかませ犬)にしようとしている節がありますが、実際の新田は足利と同じ源氏の出身ながらその庶流であり格下なのは明らかです
格付けの歴史はそれこそ古くは源頼朝の時代まで遡りますしね
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『太平記』は何かにつけて足利に対する対抗馬として新田を持ち出しては、扱き下ろしているのですが、この描写も義貞を「無教養の脳筋」とされた木曽義仲に紐付けていった印象操作の一環でしょう
バカ殿「印象操作?難しい言葉を使うな!」
アッハイ

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『太平記』はその最期を「撤退の意見を却下して戦いを選び、結果田んぼに足を取られて落馬した瞬間に眉間に矢を受けそのまま首を太刀で掻っ切って自害したが、大将としてどうなの」と酷評
その前に、この最期の描写『平家物語』での木曽義仲の最期のモロパクリなんですが……

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ただ義貞の最期はあまりにあっけなかった
1338年7月2日、支城の一つである藤島城が負傷多数による劣勢と聞いた義貞は、僅かな供回りを連れて視察に赴く
しかし途中、敵方の斯波軍300騎とばったり遭遇。そのまま戦いとなるも、敵の矢の雨を前に義貞は眉間に矢が突き刺さり戦死

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その為、金ヶ崎城攻略が足利の喫緊の課題となり1337年3月6日に猛攻を受けて陥落
尊良親王は自害し、恒良親王も捕らえられたことで北陸王朝はあっさり瓦解します
しかし義貞自身は生き延び、その後も越前で継戦。金ヶ崎城を奪還し越前を平定しかねない勢いを持ち出す

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越前は金ヶ崎城に拠点を築き上げた義貞はそこで尊氏討伐を促す綸旨を発してます
結城宗広に送られたものが現存していますが、天皇の命令書である綸旨を発行できる時点で立派な独立政権です
北陸からの流通のハブである敦賀を抑えて政権樹立した義貞は尊氏にとっても脅威でした

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湊川での敗戦後、勝手に足利と講和を結ぶ後醍醐天皇に不信感を募らせた新田義貞
その後、後醍醐の皇子である恒良親王と尊良親王を連れて北陸に渡りますが、この時の義貞には既に独立の機運があったと言われます
即ち皇子を頂点に据えた南北朝に次ぐ第3の政治権力「北陸王朝」

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逃げ若武将名鑑【新田義貞(真の獅子)】
歴史に名高い新田義貞
新田義貞には3つの選択肢があった。足利庶流として生きる道、後醍醐天皇の配下として生きる道、そして最後まで野生のままに奔る道
果たして義貞公は一人でも戦い抜く道を選ばれた。彼こそ真の獅子である

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シン・逃げ若コーナー。

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rkgk/逃げ若/邦時時行兄弟,ちょっとちいさめ

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「逃げ若」
やっぱ「画の力」が凄い…

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【Tips】尊氏の地蔵信仰
本編で描いていた地蔵絵は、恐らく静岡は清見寺所蔵の「地蔵菩薩像 伝 足利尊氏筆 一幅」を元にしていると思われる
実際は板壁でなく紙に描いたものだが、これ以外にも尊氏画と伝わる地蔵絵は多数遺されており、熱心な地蔵信仰者だったと思われる
 

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逃げ若より逃げるのが下手だった雫ちゃん
神力たくさん注ごうね?⛩️♥

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若!
”縄”と”巫女装束”なんて持ち出して、何するの…!?

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新時代の扉も大ヒット
逃げ若も大人気放送中
次は甲冑ウマ娘がくる(支離滅裂)

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