週刊少年ジャンプ連載「逃げ上手の若君」より「北条時行」くんを模写してみました!#ジャンプ

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戦果は散々だったものの北朝皇族は捕虜としてキープ。南北朝お互いに皇位の正統性を欠いた対峙が続く
その後も直冬の反乱に乗じたり「一夜の夢」として京都を三度取り返す泥沼状態の中、2代将軍義詮の死の3カ月後に崩御
後村上帝の代に南北朝統一は為されなかった

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敗走時に足利方の一宮有種に一騎打ちを申し込まれる珍事や、矢の雨を受けて鎧に被弾、三種の神器が田んぼに沈没などの数々の危機を体験
これらは『太平記』の記述だが、貴族の日記にも「兵士と後村上帝の見分けがつかなかった」と記載されるため、相当な修羅場だったのは確か

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しかし、あくまで暗黙の了解の統一とはいえ南朝が一方的に講和を破ったことは事実なため、その求心力まで失ってしまう
南朝から離脱者が続出する中、足利の勢力も依然強いままなため、戦線を維持することも困難に
2ヶ月近くの抗戦の末、京都は取り返され後村上帝も敗走します

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直義の死と同日の行動は、当時の情報伝達速度としては偶然としか言いようがない
それでもしばらくしてすぐ関東で宗良親王も挙兵しているため、ある程度は示し合わせたと思われる
京・鎌倉同時占領は足利に動揺を与え、北朝側の三帝や皇太子を連行するなど逆転勝利間近に迫る

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この尊氏の降伏を受け入れ、北朝が潰される形で南北朝統一「正平の一統」が成立
ただ、直義との交渉でこの降伏がお互いにとって一時しのぎに過ぎないと学習した後村上天皇は直義が死ぬと同日に京へと凱旋
楠木・北畠軍を京周辺へと動かして奪還作戦の準備をする

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直義の降伏を受け入れ、高師直の討伐の綸旨も与えた後村上陣営ですが、政治思想としては北朝側を崩さない直義と対立
偽りの降伏だったことも含めて直義は南朝の信頼を損ねて南北朝統一も破談に
やがて直義と尊氏の対立が再燃すると今度は尊氏が南朝に降伏を申し入れてくる

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即位後は北畠親房をブレインに打倒北朝を目指す
『太平記』では、楠木正行が玉砕覚悟で出陣を決めた際に御簾から出てきて「命を粗末にするな」と窘めるなど、父帝と正成とは対象的に描かれる
忠告虚しく正行は戦死して追い詰められるも、直義の鞍替えという好機が訪れる

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親王時代から波乱の人生であり、年少ながら北畠軍の名目上の大将として出陣
顕家戦死後に伊勢から奥州に向けて出航した際も嵐に見舞われ結城宗広と共に伊勢に戻されます
その後は万が一の時に帝位を継げる者が他にいなかったため再出航を断念して吉野へ帰還。天皇となります

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逃げ若武将名鑑【後村上天皇】
後醍醐天皇の第7宮にして第97代天皇
1339年の後醍醐天皇危篤時に譲位され、南朝の2代目天皇となる
京奪回のために何度も鎧を着込んで戦場を駆け抜けた姿が目撃されており、日本創世記たる神武以来にして最後の「戦う天皇」である

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義興が無念の死を遂げた後には義宗の活動記録すら定かではなくなり、最期もよくわかっていない
1368年に上杉憲顕の息子らに敗れて戦死したとも、生き延びて僧侶になったとも、四国で余生を過ごして1405年まで生きていたとも伝わる
人生の最後が「?」の人物となりました

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直義死後は新田家を挙げての総力戦に挑み、小手指原で尊氏と対戦
義宗は敗北しますが、義興を別動隊に回しており、そちらが鎌倉の占拠を達成するなど知性が光る
その後、義宗は笛吹峠で再び敗北して越後へと脱出。武蔵野合戦における新田家の出番は終わり、越後で力を蓄えます

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『太平記』では庶兄の義興が血気盛んなのに対して、義宗は冷静沈着なストッパーとして登場する
義興に尊氏を討つことを薦められても「いや、父の義貞が戦死した時も尊氏は打算抜きに敬意を払ってくれたから……」と断っている
しかし、結局折れて尊氏討伐に赴くことになります

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逃げ若武将名鑑【新田義宗】
新田義貞の息子で義興の弟
母親は常陸名門小田氏の娘真知であり、神主の娘を生母とする兄の義興とは家格が違うため、三男にして新田家の家督を継ぐことになる
イケイケドンドンな新田の血筋の中では慎重派とも伝わる知性派の新田。義興≠義宗

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織田信長にとっては本能寺、徳川家康にとっては大坂夏の陣と、歴史上の英傑にはそれぞれ最終回にあたる事件があります
ただし、足利尊氏にとっての最終回は自身の死の6年前にあたる直義の死と解釈するケースが多い
尊氏にとってこれ以降の戦は謂わば全て消化試合
では時行は?

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【Tips】尊氏の背中
『太平記』によると尊氏の死因は背中に出来た腫れ物(癰)だと言う
室町幕府4代将軍義持の死因も尻にできた腫れ物を掻きむしったことでの炎症とされ、当時では死に繋がる病の一つであった
創作においては直冬によってつけられた矢傷等の解釈もされる

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大河ドラマ『太平記』においては直義毒殺説を取り最終回のハイライトとなります
この最終回、第1話からのロングパス伏線とか、真田広之の慟哭の名演とか凄まじい傑作回です
そして、大河においても尊氏をここまで突き動かした存在として「神」の存在が示唆されていますが……

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直義の死因は諸説あり、幕府の発表は黄疸による「病死」ですが、当時から尊氏による「毒殺」の噂はありました
ただ、暗殺説は尊氏が急いで直義を殺す理由がないということで否定的な意見も根強いのですが、師直と同じ日に死ぬってのはやはり作為的なものを感じざるを得ない

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【Tips】直義の死
薩埵峠の戦いに敗れた直義は、尊氏によってそのまま鎌倉の延福寺に幽閉される
幽閉後2ヶ月が経った1352年2月26日、直義は急死する
その死亡した日時は奇しくも直義と対立して殺された高師直ら高一族の一回忌の日であった

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実際のところ義詮との関係調整に苦労したとは言うものの、将軍と鎌倉公方の間で諍いが起きたことは一度もなく、面識は少なくとも基氏と義詮はお互いにリスペクトしていたとも考えられます
というより観応の擾乱という実父養父の骨肉の争いを見て反面教師にしたような……

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