徳川家康の薬好きは玄人裸足

明朝で1596年に発刊された薬学書「本草綱目」を参考にした本格的な製薬に着手、家康考案の「紫雪」は風邪症状に覿面の効果を発揮した

但し自身の薬学を過信する向きもあり、諫言した医師・片山宗哲を流罪にしたこともある

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下戸の戦国武将にとって宴会は戦場

勧められた盃を断るのは非常に失礼なことで、また断られた側も意地でも飲ませなければ面子が立たない、という矜持があったため

加藤清正家では酒の席で刀を抜いたら死罪という法度もあり、割と一触即発だったらしい

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家を潰してしまった戦国大名には強烈なデバフが掛かる

理由は『生き残った関係者が御家滅亡を誰かのせいにしないといけないから』
 元家臣が江戸幕府で藩主となると影響が大きく、関係者が忖度する事もある

 最後の当主は実績を鑑みると優秀な場合も少なくない

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織田信長と三好実休が最期に持っていた刀は同じもの

いずれも“実休光忠”、長船光忠作

信長が光忠蒐集家で実休死後に獲得、実休が討死間際に太刀打ちして刃に欠けがあったという

本能寺の変で信長が使用、その後は豊臣秀吉に受け継がれた

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石田三成は埋葬された際に首と胴体を繋いで貰っていた

京都大徳寺は三玄院にある三成の墓を発掘調査した際、遺骸の頸部に小柄が刺さり頭と胴を刺し貫く形で繋いでいるのが確認されている

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石田三成はノンキャリ

如何にも内務畑一筋に見えるが賤ヶ岳の合戦で首級を獲っており、最前線の修羅場での苦労は知っている

但し同合戦で桜井佐吉家一という武将が大活躍しており、その佐吉と混同したのではという話もある

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方広寺鐘銘事件の『国家安康君臣豊楽』を起草した人物は豊臣家の滅亡土壇場まで一緒に居た

起草した京都南禅寺の僧・文英清韓は豊臣秀頼・淀殿母子が自刃した大坂城山里曲輪まで一緒に居た

落城後に捕縛されるが林羅山の口添えで赦免され天寿を全うした

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本多忠勝は家中の士に
『志よりもまず身形を整えることから始めろ』と言っている

身嗜みが整えば、それに従って志や気魄も正しくなるという理論らしい

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豊臣秀吉は実子秀頼が生まれたため養嗣子の甥・秀次を邪険に扱い死に追い遣ったが、福島正則も似た様なことをしている

正則は嫡子・正長が夭逝したのち甥の正之を養嗣子にしたが、実子忠勝を得たため正之に狂気ありと幕府に届け出て幽閉、餓死させている

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大名の隠居は次世代の予行演習期間を作るためのもの

なので家督は譲っても外交や軍事権は隠居が握っていることが多い

六角承禎や浅井久政の様に家臣統制に失敗した場合でも、隠居の現当主介入は続いていた

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戦国武将にも脳血管障害は多い

上杉謙信が有名だが、他にも北条氏康や今川氏親、小早川隆景や本願寺顕如など錚々たる顔ぶれが脳血管障害と思しき症状で亡くなっている

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藤堂高虎は満身創痍

高虎の亡骸を湯灌した者の証言では身長約186cm、右手の薬指小指欠損、左手中指および左足親指の損亡があったという

いずれも鎧武者の急所で、高虎がノンキャリで命のやり取りから成り上がった事が偲ばれる

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京都の公家達はキリスト教宣教師が樹木や草に触れるだけで枯れると恐れていた

フロイスは
『なら、誰にも尊敬されず雑草で荒れ放題の内裏に私ら呼んだらキレイになるだろうなw(意訳)』
と述べている

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