明智光秀の謀叛の理由を本人から教えて貰った人がいる

公卿で神道家の吉田兼見
朝廷の勅使として安土城を訪れた際に光秀から謀叛に関する“存分”を語られた

だが兼見は肝心の内容を記録していないので結局謎のままである

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天正三年(1575年)12月2日

吉田兼見『村長(村井貞勝)が有馬へ湯治にいくとか聞いたから見舞いに行った。

道でばったり長兵(長岡兵部大輔・細川幽斎)に会って懇談。

長兵は勝竜寺城に帰る。』

…村長さんとチョーヘイさんでは、ちょっと聞いただけだと全然偉く聞こえない不思議

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出品されていた里村紹巴の手紙。11月4日付で「今日家康も御参内之旨候」と書かれていた。『兼見卿記』には天正14年11月5日条に「徳川参内、関白御参也」とある。一日違うものの、もしかしたら天正14年(1586)に書かれたものかもしれない。冒頭に横浜一庵の名があるため文禄4年(1595)以前である事は確実

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天正六年(1578年)四月九日

織田信長が右大臣・右大将職を辞任。前右府(さきのうふ)となる

朝廷の軛を逃れて更なる高みを目指した、とする論調が多いが位階(正二位)は辞めておらず、“嫡男信忠卿に譲与”する奏達を出している事から、次世代への朝廷権力継承を目論んだものと思われる

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