真言立川流へのこれらのレッテル貼りのほとんどは後醍醐天皇を「異形の王権」と見做したことによる歪みから発生しており、建武の新政の失政に起因した誹謗中傷の集合体です
怪僧と見られた文観の人物像も21世紀になってから改められ、今後正当な評価を得ることになるでしょう

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建武二年の鎮守府大将軍(北畠顕家)。

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八木城(京都府南丹市)
建武二年(1335)に内藤顕勝によって築城されたと伝わる。天正八年(1579)の八木城の戦いにより内藤氏が滅亡後は亀山城の支城として明智光秀によって利用されたと考えられる。

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建武さん 鋭い眼光にセクシー衣装たまらんすぎるかわいい   

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建武のケツパンパンしたすぐるww
重そうなおっぱい支えてあげるよ

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元は関東庇番六番組に所属の足利一門のエリート
建武の乱では九州落ちにも同行してますが『太平記』では尊氏のストッパー役として描かれる
特に尊氏が「帝と戦いたくない!出家する!」とほざいてた時に「出家しても許さん」とにせ綸旨を作成して騙したとか

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逃げ若武将名鑑【上杉重能】
足利兄弟の従兄弟で直義の腹心
藤原北家勧修寺家の出身で母方の伯父である上杉家の養子となったため、上杉憲顕との関係は厳密には義兄
建武の乱でも足利兄弟と共に付き従い、伊豆守護を経て直義の腹心に。しかし高師直との対立の末に暗殺される

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劇中での道誉評のように「凡人や無能の気持ちがわからない」から想定外の事態に対応できず、師直評のように「先進的な政策もあるが無駄が多く現実に即さない」机上の空論のような施策の多さが建武の新政の弱点でしょう
天皇のワンマンでどうにか出来る時代じゃなくなっていた
 

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このような形で武士・貴族双方から疑念を持たれ始めた建武政権ですが、そんな中で大内裏を新築する為の増税や、新貨幣と紙幣の発行といった経済政策で更に不信感を強める事態に
紙幣発行は中国の政策の模倣で、中国密教マニアの帝ならではの発想でしたが大内裏新築と共に頓挫
 

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天下を朝廷に戻した後醍醐天皇が始めた建武の新政ですが、倒幕時に護良親王が令旨をバラ撒きすぎた反動が早速来る
後醍醐としては天皇の出す命令の綸旨を絶対としたいのに、護良が勝手に恩賞の約束をした令旨が邪魔になったのです
これが護良との軋轢の一つと言われている

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「諏訪大明神絵詞」によると藤沢が継いだことで諏訪大明神の怒りを買い様々な災いが起きた…とされますが、まあこれは諏訪大祝家が正統性を示す為のプロパガンダでしょう
実際は建武政権が立てた大祝を足利(北朝)政権が否定し、御しやすい年少の頼継を頭に据えるのが目的かと

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倒幕後は雑訴決断所に勤務するなど建武の新政に加わりますが、中先代の乱に合わせての挙兵に同行し活躍
そのまま尊氏の新政への反逆に従うも、手越河原の戦いで敗北して新田義貞に降伏
しかし次いでの箱根竹ノ下の戦いでは足利軍に加わっているため偽装降伏とも言われている

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建武の新政が始まってからは政界に復帰。顕家と共に奥州に赴任します
倒幕に加わっていない、冷遇した護良親王の義父ということから左遷とも言われてますが、同時に義良親王を任せているので報復人事の線は薄い気もする
親房は出家の身なので顕家のあくまで補佐の役割でした

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かなり扱いは低く、側近も幼少からの後見人を除けばほぼ皆無という有様
これが建武の新政で下~中級貴族を側近として大抜擢し続けた理由と言われています
要は基盤が物凄く弱い状態。さらに即位も32歳と当時としてはかなり高齢かつ一代限りの制限付き。だがやつは…弾けた
 

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本日は(旧暦だけど)湊川の戦いの日ですね。建武3年(1336年)5月25日、九州から捲土重来な足利軍VS新田・楠木連合軍が湊川で激突!楠木軍の猛攻はご存知のとおり。今日はインターミッションを読み返そうと思います〜☺※過去らくがきばかり。

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建武十一年春二月己卯、新暦の今日3月6日は劉秀の詔「天地の性、人を貴しと為す」の日だったのか! >RT

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 広有射怪鳥事
後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼして元号を建武とした年のことである。 この年は天下に疫病が流行り、病死する者が多かったという。 秋の末には、毎晩紫宸殿へと怪鳥が現れ「いつまでいつまで」と鳴いた。 その鳴き声は雲にも轟いて人々の眠りを妨げ、誰もが忌み恐れたとのこと。

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