真言立川流へのこれらのレッテル貼りのほとんどは後醍醐天皇を「異形の王権」と見做したことによる歪みから発生しており、建武の新政の失政に起因した誹謗中傷の集合体です
怪僧と見られた文観の人物像も21世紀になってから改められ、今後正当な評価を得ることになるでしょう

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後醍醐天皇が立川流に帰依して文観を重んじたのは事実ですが、後醍醐天皇の失政によって立川流自体も凋落
立川流を邪教とする高野山によって経典のほとんどが焚書、細々と伝えられた教義も江戸時代の弾圧で断絶
今日の真言立川流で明確なのはその名前だけという状態になった

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逃げ若武将名鑑【文観】
男女和合……即ち叡智(Hとも)を以て即身成仏に至らんとした真言立川流の怪僧
後醍醐天皇に仕え、彼の御仁にしばしば乱交パーティーを開いたという逸話があるのは十中八九このエロ坊主のせい
最近の研究ではSEX教団と文観は関係ないとの見方もある

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たかうじくん。
武将の中で一番好きかも。

推し活してた後醍醐天皇大好きなのに裏切るし、その押しにも裏切られて。

開くなよ、開くなよって言われてるのに幕府開いちゃうし。ちょっとうまくいかないと仏門に入るし。

満面の笑顔で戦場を駆けてるのに、終わればすぐ自己嫌悪。

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【Tips】おまえが
尊氏は後醍醐天皇崩御100日目にその死を惜しむ願文を遺している。以下抜粋
「我ら民草は黄金の君徳を忘れない」
「君臨すること太陽の如く、我らが仰ぎ見ること雲の如くの王者」
「陛下の穏やかで優しいお言葉が今もなお我の耳の奥から離れず胸が苦しい」
 

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しかしそんな覇気も次第に衰え、1339年に52歳で崩御
『太平記』は晩年の後醍醐天皇の心境を「骨は南山(吉野)にうずまったとしても、魂は京都の空を飛び回りたい」と表現
望郷の想いも空しく、稀代の天皇は京に戻ることなく吉野の苔にうずもれた
 

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尊氏の後醍醐天皇愛は兎も角、後醍醐天皇への評価は「批判」から始まっている上、合理主義的な研究を進めるより前に様々なイデオロギーと結び付き複雑化してしまったことで、今度は「肯定」もしづらいというように非常に複雑な背景を持ちます
 

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後醍醐天皇に好意的な意見が出始めるのが、戦後に公職追放された歴史家平泉澄が唱えた「皇国史観」からです
まあ皇国史観自体は極端な天皇至上主義のイデオロギーという厄ネタなんですが、逆に言うとここまで極端な思想に行き着くまで後醍醐を擁護する向きはなかったという
 

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敵対した尊氏が実は後醍醐天皇を一番慕っていたと言われており、後醍醐天皇の崩御時には天龍寺を建立して大法要も行っている
これは祟り等を恐れての政治的な動きで特別おかしいことではないが、崩御100日目に尊氏が著した上記怪文書…もとい願文を見るに完全にキマッている
 

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「黄金のような君徳」足利尊氏(足利家棟梁)
「君臨すること太陽の如く、我らが仰ぎ見ること雲の如くの王者」足利尊氏(征夷大将軍)
「陛下の穏やかで優しいお言葉が今もなお我の耳の奥から離れず胸が苦しい」足利尊氏(自称後醍醐天皇の弟子)

オイ、怪文書止めろ!!

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くじゅ11/3の小竜と兄者の手合わせで注目を集める「湊川組」は、湊川の戦い(1336)に縁のある太刀3振のことだと思います。

(湊川の戦い 後醍醐天皇側の武将)
・新田義貞:「太平記」では、【鬼丸】と【鬼切】を佩刀して戦ったとされる。
・楠木正成:【小竜景光】を差料としたとの伝説がある。

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天下を朝廷に戻した後醍醐天皇が始めた建武の新政ですが、倒幕時に護良親王が令旨をバラ撒きすぎた反動が早速来る
後醍醐としては天皇の出す命令の綸旨を絶対としたいのに、護良が勝手に恩賞の約束をした令旨が邪魔になったのです
これが護良との軋轢の一つと言われている

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何と後醍醐天皇は配流先の隠岐から脱出
この時出迎えたのが三木一草の名和長高(年)で、海運業を営んでいた彼に因んで「帆掛船」の家紋と「名前が長くて高いのは危ないからこれで長生きしろ」と「年」の字を贈ったという
人心掌握術の高さが感じ取れる逸話です
 

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逃げ若武将名鑑【宗良親王】
後醍醐天皇の第四皇子
和歌が大好きでいついかなる時でも和歌を詠んでいた物腰柔らかな皇子
流浪の末に信濃は大鹿村の大河原城を拠点として挙兵するが、それはそれとして和歌は詠む
准勅撰和歌集『新葉和歌集』の撰者で和歌集『李花集』の著者

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逃げ若武将名鑑【井伊行直】
状況的に考えて当時の井伊谷領主の行直と思われる
南朝の荘園を多数抱え、南朝支持の伊勢神宮と関わりが深いことに目を付けた後醍醐天皇が早い内から宗良親王を送りこんで抱き込んだ
遭難後の宗良親王も匿うが足利軍の猛攻には耐えられなかった
 

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北畠家自体が大覚寺統に代々仕える近臣ですが、親房は後醍醐天皇の父である後宇多天皇に仕えた「後の三房」の一人
後醍醐帝からも皇子の世良親王の世話を任せられるほど信任は厚かったのですが親王が急逝したことを嘆き出家
政界を引退したため倒幕運動には加わっていません

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逃げ若武将名鑑【北畠親房】
北畠顕家の父で後醍醐天皇一番の側近。南朝の実質的な最高指揮官
謀略を得意とした寝業師。各地を駆けずり回り、同時に学識も広めていくなど顕家とは別ベクトルの「戦う貴族」であった
著作『神皇正統記』は後世の歴史観に大きな影響を及ぼす

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『太平記』では鎌倉滅亡後に高時から諏訪家を通して時行に渡され、中先代の乱の後に時行の偽装死体が手にした鬼丸を義貞が手に入れた…とありますが、別の話では鎌倉滅亡時に義貞が既に手に入れてたとか、後醍醐天皇に渡されさらに結城宗広に下賜されたとか所有者がバラバラ
 

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「鬼丸」は北条得宗家のものでしたが、鎌倉滅亡時に義貞が奪ったとされるも『太平記』では諏訪家を通じて時行に渡され、中先代の乱終結後に時行の偽装死体から義貞に渡ったと書かれ差異がある
別の記録では後醍醐天皇のものになり、1336年に結城宗広に下賜されるなどバラバラ
 

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湊川での敗戦後、勝手に足利と講和を結ぶ後醍醐天皇に不信感を募らせた新田義貞
その後、後醍醐の皇子である恒良親王と尊良親王を連れて北陸に渡りますが、この時の義貞には既に独立の機運があったと言われます
即ち皇子を頂点に据えた南北朝に次ぐ第3の政治権力「北陸王朝」

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